命の芽、シベリアにもやす 一九四五年から一九五六年の記憶
第二次世界大戦後、多くの日本兵が旧ソ連によって極寒のシベリアへと抑留されました。彼らは雪に閉ざされ、飢えと寒さに耐える生活を余儀なくされました。食糧事情は深刻を極め、わずかな配給物資では命をつなぐことすらままなりませんでした。そんな中で彼らが頼ったのが、配給された乾燥大豆でした。
乾いた豆に水を含ませ、濡れた布に包んで体温やバラックの暖房の近くに置きました。数日で、豆から小さな芽が伸びてきました。もやしです。火を通さずにそのまま食べることができ、燃料を節約しながらビタミンCを摂取できる、まさに命をつなぐ工夫でした。その芽は、生きることへの意志の結晶でもありました。飢えに疲れ果てた兵士たちは、芽が出た瞬間に歓声を上げたそうです。「命の芽が出た」と。大豆からもやしを作る話です。
日露戦争時に日本は脚気で苦しみましたが、ロシア側もまた栄養不足に悩まされていました。日本軍が占領したロシアの陣地には大量の大豆がありました。もしロシア兵が大豆からもやしを作ることを知っていたなら、栄養不足に陥ることもなかったかもしれないという話も残っています。
このもやし栽培の試みは、記録や証言として今に伝わっています。ロシア研究者の中村逸郎氏の著書『シベリア抑留 極寒と飢餓の中で』では、もやしが「生きるための知恵」として紹介されており、また元抑留者の木村孝氏の回想録『シベリアの釘一本』では、「芽が出た瞬間、皆が歓声を上げた。あれは命の芽だった」という言葉が記されています。
二〇〇五年放送のNHKスペシャル『シベリア抑留 六十年目の真実』でも、もやしの話が登場します。ある元抑留者は、芽吹いた豆を見たソ連兵が「日本人はこんな寒いところでも豆を育てるのか」と驚いていたと語っています。この話は、単に飢えをしのぐ知恵にとどまらず、日本人の粘り強さと工夫の力を印象づける出来事としても語り継がれています。
厚生労働省の白書や国立公文書館に収められた引揚関係資料にも、豆の発芽栽培が自給努力の一例として記録されています。ある資料には、「暗いバラックの隅に、濡れた布で包んだ豆を置いた。三日ほどで芽が出て、それを見て皆が歓声を上げた。命の芽だった」との証言もあります。
このもやしの話は、単なる栄養補給の工夫ではありません。極限状況においても希望を手放さず、生きることを諦めなかった人々の、静かで力強い証しです。雪と氷の下でも、小さな命の芽が育つことを、日本兵たちはその手で証明してみせたのです。
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