Monday, April 7, 2025

瑠璃の国の侠客──菅原孝太郎と奥州西海家の記憶

瑠璃の国の侠客──菅原孝太郎と奥州西海家の記憶

菅原孝太郎、1929年に仙台市に生まれた男は、東北の風土に育てられた博徒であった。彼は平成元年、住吉会系・住吉一家西海家、すなわち奥州西海家の五代目を継承した。その名はやがて東北広域に知れ渡ることとなる。仁義と任侠道を重んじる彼の生き様は同業者のみならず地元の人々からも敬意を集めた。

奥州西海家とは東京を本拠とする日本有数の博徒組織、住吉会の中で東北を統括する要の存在であった。仙台を中心に山形、福島などへもその勢力を及ぼしていたこの一家は戦後の混乱期にその基礎を築いた。奥州という旧国名にふさわしく、雪と祭と人情の土地に根を張った存在だった。単に縄張りを誇る暴力組織ではなく港湾や建設の現場での繋がりを持ち地域社会の中に"裏の顔役"として生きていた。

彼らの活動は表立って語られることは少なかったが地域の祭礼の警備や資金援助、独居老人の見守りなど、その実態は一筋縄では語れない。ときに忌避されながらも地域の秩序と習俗の中に溶け込んでいたのだ。そうした土地で育った菅原孝太郎はまさに"東北の侠客"としての使命を背負って生きた。

五代目として一家を率いた菅原は抗争や流血を厭い、まず筋を通し話を通すことを重んじた。血を見ることを避け調整と説得をもって事を収める。彼の信条は静かでしかし芯の強いものであった。また若衆には礼儀と節度を叩き込み、ただの不良ではなく侠客としての格を持てと説いた。地域の人々への応対、言葉の選び方、身なり、すべてに"東北の誇り"を込めさせた。

時代は変わり暴力団排除条例が敷かれる中でも、菅原は祭りの裏方を静かに支えたり災害支援に動いたりと、表に出ぬまま地域と関わり続けた。肩書きではなく立ち居振る舞いで敬意を勝ち得たその姿はすでに昭和が遠くなった今でも古き世代の記憶に残っている。

彼の人生は山平重樹の手によるノンフィクション『みちのく遊侠伝 瑠璃の鳴くころに』に詳しく描かれている。そこには侠として兄として人として生きた男の姿が克明に記されている。菅原孝太郎、彼はまさに"昭和任侠の最後の世代"であり東北という土地に生きた侠の名残そのものであった。今はもう見かけることのないその姿こそが、ひとつの文化であり記憶である。

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