機械的時間と生命的時間―時計の中の誤謬―1900-2025
ベルクソン哲学の核心にあるのは、「時間」そのものに対する根源的な問い直しである。彼は、現代社会が信じる時計のような「均質で空間的に測定される時間」を、真の生命的時間から乖離したものと見なした。これは彼の言う「空間化された時間」であり、数学的・物理的に一様に分割された記号にすぎない。一方で、私たちが実際に生きて感じている時間──思い出、期待、感情の流れとともにある時間──こそが「持続(デュレ)」と呼ばれる、生きられた時間である。
この持続は、物理的な秒針では測れない。ある瞬間が次の瞬間をただ連ねているのではなく、過去が現在に浸透し、未来が予感として迫ってくる流動的で質的な変化の連鎖である。たとえば、一分間の別れと一分間の退屈は、物理的には等しいが、体験としての重みはまったく異なる。
ベルクソンは、人間がこの持続の感覚を見失い、外的な時計のリズムに自らを合わせるようになることを、「機械的時間の錯覚」と捉えた。そしてこの錯覚が、生命の本質を見誤らせ、自由や創造性までも計量化・管理可能なものと錯覚させてしまうと警告した。
彼にとって、哲学とはこの錯覚の殻を破る営みであり、直感によって持続のリズムを再び生きることで、現代人の時間感覚を回復することができる。時間を数えることから、時間を感じることへの転回。それがベルクソンの唱えた「時間の革命」であった。
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