笑いは許されぬ国 ― 北朝鮮とサイバー報復の時代(2014年)
2014年、アメリカの映画制作会社ソニー・ピクチャーズは、コメディ映画『ザ・インタビュー』の公開準備を進めていた。この作品は、北朝鮮の最高指導者・金正恩をテレビインタビュー中に暗殺するという架空のストーリーであり、主演はセス・ローゲンとジェームズ・フランコ。B級コメディとして軽く受け流されるはずだったこの映画は、やがてハリウッドがかつて経験したことのない巨大な危機を呼び起こす。
北朝鮮において、最高指導者は国家の象徴であり、まるで宗教的存在として神格化されている。金日成から続く三代世襲体制において、その人物を風刺することは、国家そのものへの冒涜とみなされる。映画の内容が明らかになるや、北朝鮮は激しく反発した。国家の「尊厳」を守るために、前代未聞の報復が準備されたのである。
その年の11月、ソニー・ピクチャーズの社内ネットワークが突如機能を停止した。社員のパソコン画面には赤いドクロマークが表示され、数万件の内部メール、未公開映画、俳優の給与情報などが漏洩し、ハリウッドは震撼した。犯行声明を出したのは「ガーディアンズ・オブ・ピース(GOP)」という謎の組織。しかしFBIの調査により、北朝鮮の国家的ハッカー部隊「ラザルスグループ」の仕業であることが明らかとなった。
攻撃はデータの漏洩だけにとどまらなかった。ハッカーたちは映画公開を中止しなければ「9.11のような報復を加える」と警告し、アメリカの大手映画館チェーンが次々に上映を取りやめるという事態に発展。『ザ・インタビュー』は劇場公開を断念し、オンライン配信に切り替えられた。これに対してオバマ大統領は、「表現の自由が外国の圧力に屈した」とし、ソニーの判断を非難した。
この事件は、国家が娯楽産業に干渉し、言論の自由を脅かす新たな「戦場」が、サイバー空間であることを浮き彫りにした。ミサイルでも銃でもない、「笑い」こそが最大の脅威とみなされる異常な国家観が、文化と政治の境界線を踏み越えていった。事件後、ラザルスグループは仮想通貨盗難や国際金融機関への攻撃を繰り返し、北朝鮮の制裁下経済を支える"裏の経済省"としての役割を果たしていく。
『ザ・インタビュー』を巡る騒動は、単なる映画論争ではなかった。それは、笑いと権威、自由と恐怖が正面からぶつかり合った、21世紀の新たな冷戦のひとつである。スクリーンの中で描かれた架空の暗殺劇が、スクリーンの外で現実のサイバー戦争を引き起こした時、私たちは初めて知った。現代の脅威は、もはや戦車や戦闘機の陰に隠れてはおらず、笑いの行方すらも国家が制御しようとする時代が、確かに到来していたのだ。
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