2024年8月13日火曜日

ベルクソン「物質と記憶」第2章 イマージュの再認 - 人工知能に意識は宿るのか



ベルグソンの「物質と記憶」の第2章「イマージュの再認」について、記憶力と人工知能、情報科学の観点から解釈を試みたいと思います。


まず、人工知能に意識が宿るのかという問題についてです。ベルグソンの「物質と記憶」に基づけば、人工知能に意識が宿ることはないと考えられます。なぜなら、ベルグソンは記憶が過去の異なる二つの形式の下で残存すると述べており、記憶には2種類があると考えています。1種類目は運動機構に保存される記憶であり、2種類目は独立的な記憶です。


いわゆる意識は、ベルグソンが「創造的進化」で述べたように、独立的な記憶に関連するものです。これは真の持続や純粋記憶と呼ばれるもので、ベルグソンが非常に重視する要素です。人間の意識は、この独立的な記憶に基づいており、これは形而上的なものであるため、空間上に蓄積されることはありません。したがって、数学的な操作や空間を扱う手法では捉えることができないのです。このことから、意識や進化が人工知能に宿ることはないと結論づけられます。


一方、人工知能が処理する記憶は、1種類目の運動機構に保存される記憶です。例えば、教師あり学習における重み付けの行列やクラスタリングの重心ポイントなどは、すべて運動機構に基づいた記憶であり、身体に保存されるものです。これらは、反射的な認識や行動を支えるものであり、経済学者ダニエル・カーネマンが述べた「システム1」に近いものです。


ベルグソンが現代にいたとしたら、おそらく純粋記憶は人工知能では扱えないと言うでしょう。純粋記憶は空間やハードディスク上に保存できないため、人工知能が再現することはできません。これが、人工知能が持つ運動機構に基づいた記憶とは根本的に異なる理由です。したがって、人工知能に意識は宿らないという結論に至るのです。


このように、ベルグソンは意識と記憶を二重の構造として捉え、純粋記憶が人間の意識にとって重要な役割を果たすとしています。一方、人工知能が扱うことができるのは、習慣的な運動機構に基づいた記憶であり、これは反復的な行動や学習に関連するものです。ベルグソンによれば、これが人間と人工知能の本質的な違いを示すものとなります。


また、ベルグソンは、意識や創造性が人工知能に宿ることはなく、これらは形而上的な記憶に基づいていると主張します。例えば、何かを見て思い出す、何かを聞いて思い出すといった行為は、芸術や創造的な活動に深く関わるものであり、独立的な記憶に依存しています。このような記憶は、単なる物理的なデータの蓄積や処理とは異なり、意識の深層に存在するものです。


さらに、ベルグソンは、脳が損傷した場合でも記憶が完全に失われるわけではないと述べています。脳の損傷が影響を及ぼすのは、主に運動機構に基づいた記憶であり、独立的な記憶はそれほど影響を受けません。精神網の人々も、記憶がなくなったわけではなく、運動能力が低下しているだけだという事実がこれを裏付けます。


このように、ベルグソンの記憶論は、意識と記憶の複雑な関係を理解する上で重要な視点を提供します。彼の理論に基づけば、人工知能は運動機構に基づいた記憶を扱うことはできても、独立的な記憶、つまり純粋記憶を扱うことはできません。これにより、人工知能が人間の意識や創造性を再現することができない理由が明らかになります。


結局、人工知能が持つ記憶は、第1の記憶、すなわち運動機構に基づいた記憶に限られますが、人間の意識は第2の記憶、つまり独立的な記憶に深く関わっています。これが、人工知能と人間の意識との間にある根本的な違いです。ベルグソンの哲学は、人工知能の限界を理解するための重要な示唆を与え、人間の意識や創造性の特異性を強調します。


ベルグソンは、意識や記憶が生命の進化と深く結びついていると主張しました。彼の「創造的進化」の概念は、生命が単なる物理的な過程ではなく、持続と創造を通じて進化するものであるという考え方に基づいています。生命は過去の経験を基に未来を創造し続けるものであり、このプロセスには純粋記憶が不可欠です。純粋記憶は過去の体験を現在の意識の中で再生し、新たな創造や発展を促します。


このように、ベルグソンの哲学は、人間の意識や記憶がどのように生命の進化と結びついているかを理解するための重要な視点を提供します。彼は、意識が物理的な世界を超えたものであり、純粋記憶を通じて過去と未来をつなぐ役割を果たしていると考えました。この理解は、現代の人工知能や情報科学の発展においても重要な意味を持ちます。




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