Saturday, March 15, 2025

静寂の果てに ― ある夜の凶行と追憶(1972年秋)

静寂の果てに ― ある夜の凶行と追憶(1972年秋)

1972年10月27日、和歌山県新宮市にある「ホテル美浜」は、静かな夜を迎えていた。長年にわたりこの宿を一人で切り盛りしてきた老婦人は、いつものように客の対応を済ませ、静かに一日の終わりを迎えていたはずだった。だが、その夜、彼女は凶刃に倒れた。

この宿は、旅人や商人が時折立ち寄る小さな宿泊施設で、都会の喧騒とは無縁の穏やかな場所だった。しかし、ある夜、彼女の姿が突然消えた。いつもなら玄関に明かりが灯り、穏やかに迎えてくれるはずの主が、どこにもいない。数日後、かつてこの宿を所有していた男が訪れたとき、異変に気がついた。鍵のかかった入口、宿の中に灯るまばらな明かり、しかし返事はない。何かがおかしい。直感がそう告げた。

彼は知人と共に、宿の便所の高窓から中へ入った。そして、そこで見たものは、血にまみれた老婦人の亡骸だった。

警察の捜査はすぐに始まった。宿の宿泊台帳には、数日前に泊まっていた男の名が残されていた。「吉田昭男(仮名)」——警察はこの名前を頼りに、捜査網を広げた。かつて彼は金に困り、各地を転々としていた。事件当日の状況を洗い出すうちに、犯行の輪郭が浮かび上がってきた。

犯人は、ホテル美浜の経営者が資産家であることを知っていた。金を狙い、宿に泊まり込んだ。そして夜が更けたころ、凶器を手に、彼女の部屋へと忍び寄った。使われたのは山ナタ。暗闇の中で振り下ろされた一撃、そして続く惨劇。彼は金庫を探したが、うまく開けることができなかった。奪ったのは、わずかな現金だけだった。

警察は、彼が事件後に大阪、名古屋、京都を転々としていることを突き止めた。そして11月13日、ついに愛知県の小さなアパートで彼を発見し、身柄を確保した。

この事件が起きた1972年、日本は高度経済成長のピークを迎え、都市は発展していく一方で、地方にはまだ取り残された影があった。東京や大阪の繁華街は賑わいを増し、人々は新たな消費文化に夢中になっていたが、地方の宿泊施設や商業は、それとは裏腹に衰退を見せ始めていた。そんな時代の中で、ホテル美浜は静かに営業を続けていた。しかし、その静寂は、ある夜、残酷な結末を迎えた。

宿の扉の向こうにあった、いつもの変わらぬ景色。その平穏は、一瞬のうちに失われた。そして、やがて事件の記憶もまた、人々の中で薄れていった。だが、秋の夜風が吹きすさぶあの宿の廊下には、今も静寂だけが残っている。

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