新宿の影を往く—昭和三十年より四十年にかけての矢島武信と安藤組の興亡
矢島武信(やじま たけのぶ)は、1933年(昭和8年)生まれで、立教大学を卒業したという異色の経歴を持つ人物だった。立教大学はキリスト教系の伝統ある大学であり、当時としては大学卒のヤクザというのは極めて珍しい存在だった。彼は安藤組の幹部として活躍し、組内では交渉力と腕っぷしを兼ね備えた実力者として知られていた。安藤組は、映画俳優としても有名な安藤昇によって率いられた組織で、昭和30年代に新宿を中心に活動していた。
この時代、日本のヤクザ社会は大きな変革期を迎えていた。第二次世界大戦の終結後、日本は物資不足と経済混乱に見舞われ、都市部では暴力団や愚連隊が勢力を拡大していた。新宿はその中心地の一つであり、違法な闇市や売春街が広がり、暴力団が利権を掌握していった。昭和30年代になると、従来の伝統的な博徒系ヤクザと、新たに台頭した愚連隊系・経済ヤクザが混在するようになった。安藤組は、いわゆる「愚連隊」出身の集団であり、新宿を拠点として強い影響力を持っていた。安藤昇自身は、ヤクザの世界にいながらも「反暴力団的」な立場を取ることが多く、東映の映画にも出演しながら、自身の半生を描いた映画を通じて組織の影響を広げていた。
昭和40年代に入ると、日本政府は1964年の東京オリンピックを機に治安維持を強化し、警察が暴力団取締を本格化させた。その結果、多くの組織が解散に追い込まれた。安藤組も例外ではなく、1965年に安藤昇の引退とともに解散した。矢島武信は安藤組解散後、小金井一家に移り、新宿東初代を務めることとなる。小金井一家は、新宿を拠点とする博徒系のヤクザ組織であり、安藤組とは異なる伝統的なスタイルを持つ団体だった。その後、矢島は堀尾昌志の跡目養子となり、組織内での地位を確立した。
矢島武信は、交渉能力と武力を兼ね備えた人物として知られ、組内では「ケンカも交渉もできる男」として評価されていた。安藤昇からの信頼も厚く、組織の中核を担う幹部の一人だった。また、立教大学出身という高学歴もあり、単なる武闘派ではなく、知的な側面を持っていたとされる。彼が活動した時代は、日本のヤクザ社会が大きく変化した時期であり、暴力団取締が強化される中で、組織の形態も変わっていった。
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