Wednesday, April 30, 2025

灰色の署に咲いた赤い芽――竹中労と戦後反骨精神の系譜(1945〜1991)

灰色の署に咲いた赤い芽――竹中労と戦後反骨精神の系譜(1945〜1991)

竹中労(たけなか・ろう)は1930年、長野県に生まれた。後に「無頼の評論家」「アウトローの記録者」とも称されるが、彼自身はそのような肩書きを嫌っていた。「思想を持たぬ者に思想の名を与えるな」といわんばかりに。彼にとって思想とは、学歴や権威によって飾るものではなく、泥と飢えと怒りとともにある、生きざまの結果にすぎなかった。

十五、六歳で中学を中退し、熊本の警察署で給仕をしていた彼は、権力の中枢で"敵の思想"を知るという、あまりにも皮肉な出会いを経験する。特高刑事から渡された社会主義文献は、彼にとって理論書ではなく、「貧しさの説明書」であり、「自分の怒りに名前を与える本」だった。

彼の文体は、しばしば「報道」と「文学」の境界を踏み越える。現場に踏み込み、当事者と寝食をともにし、その肉声を紙の上に再現する姿勢は、当時の記者や学者から「情緒的すぎる」「主観が強い」と批判された。しかし竹中にとって「記録」とは、冷静な客観ではなく、誰かの沈黙を代弁する"吠え声"であり、歴史に殴り書きする"落書き"であった。

彼は「下層」の者たちに執着した。被差別部落、在日コリアン、芸人、バクチ打ち、過激派の学生たち。とりわけ彼の代表作『日本浪曼派批判序説』『ルポライターから』などは、そうした人々の声が血肉化されたような作品群である。それは決して観察者の距離からではなく、自らもまた「非正規の民」として生きる覚悟をもった文体だった。

また、竹中は権力と思想の「癒着」にも激しい嫌悪を抱いていた。党派に属さず、運動にも加担せず、ただ社会の綻びを記録し続ける。だからこそ彼は孤独だった。仲間からは浮き、評論家からは嘲笑され、それでも彼は筆を折ることはなかった。

「どこにも居場所のない者が、語り得ない痛みをどう伝えるか」――それが竹中労の根源的な問いであった。彼はその答えを、「自らが語る側であり続けること」で示し続けた。彼の語りには常に、若き日の警察署の冷えた床の記憶が通奏低音のように鳴っていた。

晩年も病と闘いながら、声を失っても原稿を書き続けた竹中は、まさに「書くことが生きること」である人物であった。国家の公式記録には決して記されない無数の人生を拾い上げ、その汚れた言葉で日本の裏面史を編んでいった。

竹中労とは、昭和という濁流の岸辺に、ただ一人逆立ちして立ち続けた男である。思想は警察署で拾ったが、それを投げつけた先は、常に"社会の心ない中心"だった。

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