Wednesday, April 30, 2025

「浅草の寺子」から「戦後文化の観察者」へ――永六輔の生きた時代

「浅草の寺子」から「戦後文化の観察者」へ――永六輔の生きた時代

永六輔は1929年(昭和4年)、東京・浅草に生まれました。大正末から昭和初期にかけての日本は関東大震災(1923年)からの復興期にあり、都市部には「モダン東京」と呼ばれる洋風文化が流れ込む一方、世界恐慌の影響も色濃く、不況と社会不安の時代でもありました。浅草はその最前線ともいえる地域でした。雷門と寄席、活動写真と見世物小屋。大衆娯楽と宗教が混在する空間にあって、永は寺の子として生まれ、文字どおり「庶民と文化の坩堝(るつぼ)」の中で育ちます。

幼少期の永に大きな影を落としたのは、1930年代の日本の右傾化と戦時体制の進行でした。国民学校では軍国主義教育が徹底され、寺であっても国家神道と距離を取ることは困難でした。父が住職であるという立場も、時に国家権力との近接を強いられることもあり、永少年は早くから「公」と「私」、「権力」と「思想」のあいだにある葛藤を体感していたことでしょう。

戦争が終わった1945年、永は16歳。焦土と化した東京の下町にあって、彼はやがて早稲田大学に進学します。戦後の大学は民主主義の象徴のように語られていましたが、その内部には旧制的な空気と新たな自由主義が混在していました。この混沌の中で、永は詩人エロシェンコや高津正道らと親交を結びます。エロシェンコは盲目のまま世界を旅し、日本ではプロレタリア文化運動とも関わった人物。高津は戦前から民衆の側に立つ文化活動を行っていたことで知られています。永はそうした「敗者の思想家」たちと交わりながらも、「運動家にはなりきれなかった」と語ります。

永が目指したのは、運動の中核に入ることではなく、外縁でそれを観察し、文化として翻訳する役割でした。放送作家としてNHKや民放のラジオ・テレビ番組に関わりながら、彼は「笑い」と「皮肉」を武器に、戦後日本社会の矛盾や滑稽さをあぶり出していきます。宗教者でありながら、政治や社会の空気に対して鋭利な批評を加える姿勢は、まさに浅草の下町的な「型破りの美学」の体現でした。

1950〜60年代、日本は高度経済成長の真っ只中にありました。「三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)」が家庭に普及し、モータリゼーションと郊外化が進み、地方の若者たちが集団就職で上京する時代。こうした急激な変化の中で、永は「昭和の記憶」「庶民の言葉」「忘れられた風景」といったものをラジオやエッセイで掘り起こし続けます。

また、ベトナム戦争反対運動や学生運動が盛んだった1960〜70年代には、永六輔は一貫して「反戦」「平和」「市民目線」といった立場から発言を続けます。坊主という身分にあって、檀家や教義ではなく、むしろ「人間とは何か」「権力とは何か」を社会の内外から問い直す存在となったのです。

そして、彼の反骨の精神には、「生まれながらの反体制派」であった竹中労と通じるものがありました。彼らはともに「組織」に帰属せず、「思想を持ちながら、運動を語らずにいられる」稀有な人物たちでした。永の「反権力」は感情的でも情緒的でもなく、むしろ下町的な「勘」と「距離感」からくるものでした。「なんだか気にくわない」という直感に根ざしながらも、それを文化の言葉に変換する手腕が、彼の語りにユーモアと教養を与えていたのです。

このように永六輔は、戦前の混沌と戦中の抑圧を生き抜き、戦後民主主義の実験場としての東京に根を張りながら、常に「社会の斜めから」言葉を投げかけた文化人でした。彼の人生と発言は、近代日本が抱えた矛盾の縮図であり、また同時に「個」としてそれをいかに生きるかの手本とも言えるでしょう。

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