転機の空、迷走する大地――四次防と戦後日本の岐路(1972年〜1976年)
1972年、日本防衛政策の大きな転換点となったのが「第四次防衛力整備計画」、いわゆる「四次防」であった。この四次防は、1972年度から1976年度までを対象とし、米ソ冷戦下の国際情勢の変化、ベトナム戦争の終結に向かう動き、さらに日中国交正常化といった大きな外交的転機を背景に、日本の防衛力を質的に飛躍させるための国家的な計画だった。防衛庁はこの四次防を「単なる軍拡ではなく、質の向上と機能の充実を目指す」と位置付けていた。
まず航空自衛隊においては、米国製の最新鋭戦闘機F-4EJファントムIIのライセンス生産が決定された。それまで主力であったF-86セイバーなど老朽化した機体を更新し、全天候型迎撃能力を大幅に高めるためであった。このF-4導入により、航空自衛隊のスクランブル、すなわち緊急発進能力は飛躍的に向上し、日本の空の防衛は新たな段階に入ったのである。
同時に海上自衛隊も大幅な強化が図られた。具体的には、大型護衛艦の建造計画が進められ、ここで初めて艦対空ミサイルシステム、Tartarミサイル、後にSea Sparrowを搭載する構想が検討された。これは、後にイージス艦「こんごう型」へと発展していく、いわば日本版ミサイル防衛構想の端緒であった。また、ソ連の潜水艦戦力拡張に対応すべく、対潜水艦作戦、ASW能力の強化も並行して推進された。
陸上自衛隊においても、特に北海道方面を重視してソ連の侵攻に備える部隊の即応体制が整備された。新型戦車である74式戦車の開発、配備、対空ミサイルシステム、ナイキJ、改良ホークの更新なども含まれており、陸海空を問わず自衛隊全体の近代化が図られた。
こうした大規模な近代化計画は、防衛費の増加を伴ったが、当時の政府は「GNP(国民総生産一パーセント枠)」という自主規制を堅持し、防衛費の抑制と拡充を両立させる絶妙なバランスを模索した。四次防は、経済大国となった日本が軍事小国の原則を維持しながら、必要最低限の防衛力を確保しようとする試みでもあった。
しかし、ここで問題になったのが、先述した「中国脅威論」の崩壊である。日中国交正常化によって、これまで防衛力増強の最大の根拠だった中国の脅威が公式に否定された以上、四次防の推進には全く別の論理が必要となった。政府は急遽、ソ連脅威論への切り替えを図り、北海道防衛を中心に防衛計画を再構成したが、社会党や共産党などの野党からは、「脅威なき軍拡ではないか」と強い批判を浴びた。
当時、朝日新聞は社説で「日中の和解で中国脅威論は事実上崩壊した。にもかかわらず防衛力増強が進められるとすれば、それは全く別の論理を要する」と警鐘を鳴らした。つまり、単なる軍備拡張に陥ることなく、日本は防衛とは何か、国家安全保障とは何かについて、より深い説明責任と自己省察を求められるべきだという問題提起である。防衛力整備が自己目的化すれば、それは平和憲法と矛盾しかねない、というリベラルな危機感がここにはあった。
こうして四次防は、単なる防衛予算の話にとどまらず、戦後日本が抱える「経済大国だが軍事小国」という自己矛盾を、初めて本格的に突きつけられた国家的試練となったのである。外交、防衛、世論、それぞれの思惑が絡み合い、1970年代初頭の日本は、静かだが確実な岐路に立っていた。
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