Monday, April 28, 2025

黒髪静座図――山口小夜子と光の肖像(1949年〜2007年)

黒髪静座図――山口小夜子と光の肖像(1949年〜2007年)

山口小夜子(やまぐち・さよこ)は、1949年に横浜で生まれた。東京・杉野学園ドレスメーカー学院でデザインを学び、モデルとしての道を歩み始めた彼女は、1970年代初頭に資生堂の広告モデルに抜擢され、瞬く間に脚光を浴びる。

当時、日本は高度経済成長期の只中にあり、万国博覧会(1970年・大阪)を成功させた後、国際的な自信を深めつつあった。しかし一方で、戦後復興から続いた欧米志向の価値観に揺らぎが生じ、「日本独自の美とは何か」を模索する空気が社会に満ちていた。そんな時代の波間から、山口小夜子は現れた。

彼女は、くっきりとした黒髪ボブ、切れ長の瞳、無表情に近いミステリアスな佇まいをもって、「西洋的な美人像」とはまったく異なる東洋的な美を体現した。資生堂のキャンペーンでは、その無垢な中にも秘めた強さを感じさせる存在感が、新しい日本女性像として一躍注目を集めた。

この資生堂キャンペーンを支えたのが、写真家の横須賀功光(よこすか・いさみつ)であった。横須賀は、山口小夜子の沈黙の美を見抜き、静謐な余白を活かす独自の撮影手法で、彼女の神秘を際立たせた。彼が撮った小夜子のポートレートは、単なる広告写真を超え、見る者に語りかける絵画のような力を持っていた。

ふたりのコラボレーションは、1970年代日本におけるビジュアル文化の黄金時代を象徴するものとなった。横須賀は山口に「動かずに世界を語る」能力を見出し、彼女はそれに応えて一枚の写真の中に、沈黙と情熱、静止と躍動のすべてを封じ込めた。

やがて彼女はパリ・コレクションへと進出し、ピエール・カルダンやジャン・ポール・ゴルチエといった世界的デザイナーたちのモデルとしても活躍。「東洋から来た妖精」と称され、国際的な評価を不動のものとした。欧米のファッション界がアジアへの関心を高めつつあった時代に、山口小夜子はその象徴となったのである。

しかし、1970年代後半、日本国内で爆発的に消費文化が広がる中、ファッションや広告に消費される自らの存在に、彼女は次第に違和感を抱き始める。そして単なるファッションモデルにとどまることを拒み、俳優、舞踏家、演出家へと活動の場を広げていった。

晩年、彼女は「身体を通して世界と対話する」という芸術思想にたどり着き、舞台や映像表現に傾倒していった。2007年、58歳で急逝したが、その死後も「小夜子展」などで作品は繰り返し回顧され、彼女の存在は日本の美意識の中に静かに息づいている。

山口小夜子と横須賀功光。ふたりが織りなした静かな革命は、時代のざわめきの中にあって、なおひとしずくの光を放ち続けている。
その光は、黒髪の静座を纏いながら、いまも私たちの記憶の奥に咲き続けている。

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