揺れる橋、遠い岸辺――宮沢喜一とビル・クリントンの世代断絶(1991年〜1998年)
宮沢喜一は、日本の第78代内閣総理大臣として1991年11月から1993年8月まで政権を担った。彼は、戦前の官僚制度を体現するような知性と慎重さを備えた指導者であり、昭和の薫りを色濃く残していた。
一方、ビル・クリントンは、アメリカ合衆国第42代大統領として1993年1月に就任し、ベトナム戦争を直接経験せず、ロック音楽とテレビ文化に育った戦後世代の申し子だった。両者の在任期間はわずか半年ほど重なり、その間に、時代の節目を象徴するかのような、微妙なジェネレーションギャップと価値観の断絶が浮き彫りとなった。
当時の宮沢政権は、国内では佐川急便事件などの政治資金スキャンダルに揺れ、政権末期の様相を呈していた。一方、クリントン政権は、冷戦後の国際秩序において「経済こそ安全保障だ」という新たな外交理念を掲げ、対日政策においても従来の安保重視から経済重視へと大きく舵を切った。貿易赤字の削減と市場開放を強く迫るその姿勢は、戦後日本を支えた宮沢型の官僚的バランス感覚とは、根本的に異なるものだった。
1993年4月、ワシントンで行われた宮沢・クリントン会談では、新たな「日米包括経済協議」が立ち上げられることが合意された。この枠組みは、単なる貿易摩擦の解消を超え、日本経済の構造改革――流通、金融、公共事業に至るまで――をアメリカ側が求めるという、かつてない深さを持つものだった。しかし、クリントンが求めるスピード感と宮沢が重んじる慎重な手続き主義は噛み合わず、会談から間もなく宮沢内閣は総辞職に追い込まれた。新たな日米関係の扉は、細川護熙政権へと託されることになる。
一方、その後のクリントン自身も、若さゆえの奔放さが影を落とすことになる。
まず、クリントンにはアーカンソー州知事時代にさかのぼる「ホワイトウォーター事件」の影がつきまとった。これは、クリントン夫妻が関与した不動産投資プロジェクトに絡む資金不正疑惑であり、後に独立検察官ケネス・スターによる長期捜査へと発展した。直接の違法行為は証明されなかったものの、道義的責任が問われ続けた。
そして、1998年、より深刻な問題が噴き上がる。ホワイトハウスの実習生モニカ・ルインスキーとの不適切な関係をめぐり、クリントンは公に「関係はなかった」と否定したが、証拠により偽証と司法妨害の疑いが浮上。下院で弾劾訴追され、アメリカ史上二人目の弾劾訴追を受ける大統領となった。
ただし、上院では有罪に至らず、大統領の地位にはとどまった。経済好調に支えられた世論は、彼を許容する方向へと傾いたが、国家の倫理基盤には大きな亀裂を残した。
宮沢喜一とビル・クリントン――二人のリーダーが交錯した瞬間は短かった。しかしその出会いは、冷戦後の新しい世界秩序における、世代間の断絶と価値観の転換をはっきりと映し出していた。慎重さと即応性、規律と自由奔放、そして古い世界と新しい世界。揺れる橋の上で、二つの岸辺は互いに手を伸ばしたが、結局交わることなく、時代の流れに押し流されていったのである。
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