Thursday, April 17, 2025

花に誠のなき世を憂ふ ― 吉原花魁と「誠無し」の宿命(江戸から昭和)

花に誠のなき世を憂ふ ― 吉原花魁と「誠無し」の宿命(江戸から昭和)


「遊女に誠無し」――その一言は、ただの偏見か、それとも制度に縛られた女たちの叫びか。江戸幕府公認の遊郭、吉原。そこは俗世と隔絶された欲望の迷宮であり、色と金と格が支配する人工の楽園だった。男たちは夢を買い、女たちは夢のふりをして生きた。

塀に囲まれた一郭の中、昼なお暗い格子越しに、極彩色の衣をまとった花魁が座す。花魁とは、ただの娼婦ではない。和歌、書、茶の湯、香の道。あらゆる教養と美を身にまとい、上客にふさわしい振る舞いを求められた。だがその輝きの裏には、幼くして売られた過去、年季という名の鎖、そして自由な恋を持てぬ苦しみがあった。

制度の中で、遊女は誠を語ることを禁じられた。情を見せることは破滅への近道。だからこそ、彼女たちが口にする愛の言葉は、常に疑われた。「誠無し」とは、そうした世界に課せられた烙印だった。

だが、文学と舞台はその烙印を逆撫でする。近松門左衛門の『曽根崎心中』では、遊女お初が命を賭して誠を貫く。『冥途の飛脚』では、梅川と忠兵衛が制度に抗い、情に殉ずる。彼女たちは、「誠無し」の世界において、むしろ誠の極致を生きた。

そして実在の花魁、如月太夫の名がある。京の島原で名を馳せた彼女は、一人の武士に心を寄せられ、身請けを持ちかけられた。だが彼女はそれを断った。男には妻があったからだ。如月は、どれほどこの身が売られても、心までは売らぬと誓った。

伝えられる言葉がある。

誠あらば恋に生きず。恋に生きるとて誠を死なすは恥なり。

その誇り高い言葉の奥に、彼女の孤高がにじむ。誠を貫くとは、誰かを愛することではない。己の誠を、世の不条理に屈せず保つことであった。

やがて時代は移り、永井荷風は『墨東綺譚』で玉ノ井の娼婦・お雪に素朴な人間性を見いだす。昭和の売笑の町にも、誠は消えずに宿っていた。そして現代。村山由佳の『ダブル・ファンタジー』では、誠を持たぬことで自由を得ようとする女たちが描かれる。そこには、かつての吉原が逆照射されている。

吉原とは、誠を禁じられた世界だった。だが、誠を持たぬと断じられたその場所にこそ、誠を生き抜こうとした花が咲いていた。口には出せずとも、命を懸けて証明しようとした誠が、確かにそこにあった。

遊女に誠無し。その言葉は、もしかすれば誠に最も近づいた者たちを指していたのかもしれない。

No comments:

Post a Comment