Saturday, April 5, 2025

私は1969年という時代に、部落の町で呼吸していた。

私は1969年という時代に、部落の町で呼吸していた。
舗装されていない道、木造の長屋、名前を言うたびにどこかで冷たい目を感じる日々。
誰もが見ないふりをしていたが、そこには確かに線が引かれていた。

## 水平社の理想と、僕らの現実

私たちが誇りに思っていたはずの全国水平社。
その創設者たちが掲げた人間の解放という言葉は、あまりにまっすぐだった。
けれど、時が経つにつれて、いつのまにか部落民の権利要求へと、狭められていったように感じる。
誇りを持てと言われれば、うなずくこともできる。
でも、それは、誰かに違いを突きつけられたあとに、ようやく取り戻そうとするものだった。

## ありがた迷惑という贈り物

同和対策事業――道が整備され、住宅が新しくなる。
ありがたい。けれど、それがどこかで差別がある前提に立った対策であると、私たちは知っていた。
役所の職員が言う。ここは同和地区ですから
その一言が、私に、もうひとつの烙印を押す。
私は、またしても普通ではないことを、行政に証明されてしまったのだ。

## 糾弾という名の沈黙

あの頃、差別発言には、容赦のない糾弾が行われた。
マイクの前で頭を下げさせる光景。涙を流す人もいた。
でも、それがほんとうに差別をなくすためだったのか。
あるときから私は疑い始めた。
糾弾が、人を理解させるのではなく、ただ屈服させる儀式になってしまったとき、
私のなかにあった運動への信頼も、少しずつすり減っていった。

## イデオロギーに呑み込まれた言葉

部落解放運動が、社会主義や共産主義と手を結びはじめた。
資本主義が差別を生む構造だと言われる。なるほどと思った。
でも、そのうちに、運動が誰かの道具になっているように見えた。
学生運動の指導者たちは、君らもデモに来いと言ったけれど、
私たちには、私たち自身の言葉があった。
それを横から正しい言葉に塗りかえられるのは、たまらなく苦しかった。

## 名を越えて、私であること

文書には、部落民という自己定義を超えて、人間の解放を考えるべきだと書かれていた。
私はその言葉に、胸を突かれた。
自分が部落出身者であることに誇りを持て――たしかにそうだ。
でも、誇りのまえに、自由がほしかった。
誰の目も気にせず、自分の声で笑い、怒り、好きな道を歩ける、そんな当たり前が、私はずっとほしかった。

## 私の1969年

あの年。
日本中がざわめきに満ちていた。
大学はバリケードに包まれ、新聞は政治と学生運動の話で埋まった。
その中で、部落の私たちも、確かに声をあげようとしていた。
でも私の声は、小さく、揺れていた。
怒りでもなく、正義でもない。
ただ、私を、まるごと見てほしい――そう願っていた。

## 関連情報(参考になる資料)

部落出身者として、あの時代を知りたい、考えたいと願う人のために。
ここにいくつかの資料を記します。

- 加藤直樹『差別の日本近現代史』
- 角岡伸彦『部落問題とはなにか』
- 上原善広『日本の路地を旅する』
- 法務省 人権啓発資料(人権擁護局)
- 部落解放同盟 中央本部
- 反差別国際運動 IMADR

部落に生まれた私は、いまも自分の声を探している。
それは誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。
けれど、私は、声を上げ続ける。
部落民という名前の奥にある、私というひとりの人間として。

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