刑法175条をめぐる議論 ― 昭和40年代初頭の時代背景とともに
刑法175条は「猥褻文書の頒布等を禁止する」条文として明治期から存在していたが、戦後民主主義が定着したとされる昭和40年代にもなお強い効力を持ち続けていた。高度経済成長の中で都市文化が拡大し、映画・出版・芸能などの表現が多様化した一方で、性表現をどう扱うかは国家と社会の緊張を映し出す問題となった。特に1970年代初頭は学生運動の余波や社会不安が残る中で、国家権力は秩序維持を重視し、表現の自由よりも規制を優先させる傾向が強かった。
議論の中心は、この条文が本当に「公共の善良な風俗」を守るために必要なのか、それとも国家が気に入らぬ表現を恣意的に抑圧する道具にすぎないのか、という点であった。猥褻か否かの判断は極めて主観的で、時代や社会状況によって変動する。そのため、法が権力者の都合に応じて柔軟に解釈され、ある時には文学作品や映画が摘発される一方で、同種の表現が見逃されることもあった。
また、国家が「政策」として175条を活用してきた点も批判された。社会が不安定になる時期には規制を強め、逆に国際的批判が高まれば表現の自由を尊重する姿勢を装うなど、条文は政治的に利用されやすかったのである。これにより、法律が普遍的規範ではなく権力維持のための道具と化してしまう危険が指摘された。
昭和47年前後の裁判では、こうした議論が現実の法廷で争われた。弁護側は「猥褻規制は時代遅れであり、近代国家にそぐわない」と主張し、国家権力による表現規制の恣意性を追及した。一方で検察は「公共の秩序維持に不可欠」として条文の存続を正当化した。つまり、刑法175条をめぐる攻防は単なる性表現の問題ではなく、戦後日本における民主主義と国家統制のせめぎ合いを象徴する論点であった。
――当時の時代背景を踏まえると、この条文をめぐる議論は「自由を拡大する社会」と「規制を強めたい国家」との矛盾を浮かび上がらせ、戦後日本の政治文化の縮図でもあったのです。
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