Tuesday, June 3, 2025

政治における“嘘”と“演出”(1974年)

政治における"嘘"と"演出"(1974年)

1974年、日本は第一次オイルショックの混乱から立ち直れずにいた。物価は急騰し、狂乱物価という言葉が世間を覆い、政府の経済政策への不信感が募っていた。同時に、田中角栄首相の「日本列島改造論」に象徴される大型公共投資と、それを巡る金権体質が次第に批判の的となっていた。

そんな中、政治家たちは"誠実なリーダー像"を演じようと努めたが、その演出は国民にとってむしろ"嘘"として映った。記事では、ある国会中継を取り上げ、「議場は舞台装置にすぎない。政治家は脚本通りに振る舞い、誠実さを装うが、国民はその芝居に騙されなくなっている」と評している。

国会答弁では、真意を語るよりも"ごまかし"や"質問はぐらかし"が目立ち、記者会見では予定調和のセリフが並ぶ。こうした演出過剰な態度に、メディアや若者たちは敏感に反応した。当時の雑誌やテレビ番組でも、政治を風刺する表現が増え、演技としての政治への違和感が共有され始めた。

記事は、「政治における誠実さとは、演技の上手さではなく、答弁の背後にある覚悟だ」と結び、嘘を真実にすり替える"政治的演出"に対して、言葉の重みを問い直す姿勢を求めていた。

この1974年という年は、政治家と国民との間に深い溝が生まれ始めた時代だった。その溝は、"演技"によって埋めるには、あまりにも深かった。

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1974年の日本の総理大臣は田中角栄でした。そしてその年、政界では金権政治の象徴として彼の存在が大きくクローズアップされ、内閣退陣へとつながる数々の政治的事件と混乱が生じていました。

■ 総理大臣:田中角栄(在任:1972年7月~1974年12月)
代表的な政策:1972年の「日本列島改造論」によって地方への大型公共事業が推進された。
1974年の事件:第一次オイルショックの影響で物価高騰、国民生活が圧迫される中、田中政権は急速に支持を失う。加えて、彼自身の金脈問題(不透明な土地取引など)が『文藝春秋』で報じられ、世論の猛反発を受けた。
結果:1974年12月、田中角栄は「体調不良」を理由に首相を辞任したが、実質的にはスキャンダルによる退陣であった。

■ 大平正芳(当時の外務大臣、のちに首相)
田中政権下で米中関係に配慮しつつ、外交路線を維持。日中国交正常化にも関与。

■ 福田赳夫(元大蔵大臣、田中の政敵)
田中角栄とは政敵関係にあり、「角福戦争」と呼ばれる派閥抗争を繰り広げた。

■ 三木武夫(田中の後継、1974年12月に首相就任)
クリーンな政治を掲げ、「クリーン三木」と称されたが、党内で孤立し苦難の政権運営を強いられた。

1974年は、政治家の振る舞いが"演出"と見なされ始め、誠実さとは何かが問われた時代であった。

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