背丈を比べる影――明治の吉原に咲いた淡き心(1895〜1896年)
樋口一葉の『たけくらべ』は1895年から翌年にかけて文芸誌『文学界』に連載された短編小説であり彼女の代表作として文学史に名を刻んでいます。舞台は東京・吉原遊廓の裏手にある「大音寺前」。そこに暮らす思春期の少年少女たちの繊細な心の揺れが静かな筆致で描き出されています。
物語の核となるのは14歳の少女・美登利と僧侶の息子・信如の淡い交わりです。美登利は人気遊女である姉を持ち町の人気者として快活に振る舞っています。しかしその明るさの奥には家庭環境と将来への不安が見え隠れしています。一方信如は寡黙で内省的な少年。仏門に進むべく育てられ周囲の世界との距離を測りかねています。二人の間には言葉にならぬ情が流れていますがそれは結局すれ違いのまま深まることはありません。
物語は千束神社の夏祭りから始まり大鳥神社の酉の市へと続く季節の移ろいとともに進行します。その短い時間の中に町内の子どもたちの抗争や信如の出家美登利の内面的成長が折り重なります。やがて信如は町を去り美登利は沈黙を選びます。互いの心が交差することのないまま物語は幕を閉じます。
『たけくらべ』という題名は平安時代の歌物語『伊勢物語』の一節に登場する幼馴染が井戸の柵で背比べをしたという話に由来しています。そこに込められているのは成長とともに変化してゆく人間関係への郷愁。樋口一葉はこの古典的モチーフを借りつつ近代化の渦中にある都市の片隅で少女と少年の触れあわぬ心を描きました。
作品は森鷗外や幸田露伴ら当時の文士たちから絶賛され樋口一葉の名声を決定づけるものとなりました。彼女は僅か24年の生涯であったにもかかわらずこの作品により明治の文学界に深い足跡を残したのです。
吉原という閉ざされた空間を背景に少女が少女でいられた最後の時間少年がまだ社会に染まらぬ存在であった刹那のきらめきを樋口一葉は哀切とともに記録しました。その余韻は今もなお読む者の胸にそっと影を落とします。
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