なぜ福島の原発事故(全電源喪失・炉心溶融)は防げなかったのか?—2011年3月
福島第一原子力発電所事故は、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震と、それに続く大津波によって引き起こされました。地震発生後、原子炉は自動的に停止し、核分裂反応は停止しましたが、炉心は依然として高温を保っており、継続的な冷却が必要でした。しかし、その直後に襲った津波により非常用電源設備が浸水し、発電所は全電源喪失(ステーションブラックアウト)という深刻な状態に陥りました。この結果、冷却機能が完全に失われ、炉内の温度は急激に上昇。燃料棒は溶解し、炉心溶融(メルトダウン)が発生しました。
加えて、燃料被覆材である金属ジルコニウムが高温下で水と化学反応を起こして水素を発生させ、この水素が原子炉建屋内に充満して、1号機、3号機、4号機において連続的な水素爆発を引き起こしました。これにより大量の放射性物質が外部へと放出され、周辺地域に深刻な被害をもたらしました。
この事故の背景には、自然災害に対する技術的過小評価と制度的欠陥がありました。設計時に過去の津波の実例を軽視し、最大で5.7メートル程度しか想定していなかったことが被害を拡大させました。また、発電所自体が1970年代の旧式設計であり、津波や地震に対する多重防護(層状防護)が不十分でした。さらに、事故対応の初動にも混乱が見られ、情報公開の遅れや避難の遅延など、被害の深刻化を招く要因となりました。
当時の原子力規制体制にも問題がありました。安全規制を担当する原子力安全・保安院が、原子力の推進母体である経済産業省の配下にあったことで、規制機関としての独立性が確保されておらず、リスクに対する厳格な監視がなされていなかったのです。こうした体制の欠陥が事故の規模を大きくしたとされ、「人災」との批判も強く残されました。
この事故は、自然災害の脅威に対する過信と、人間の制度的脆弱さが複合して起きた、日本の歴史上最も深刻な原子力災害です。以後、原子力発電の安全性、多重防護、危機管理、避難計画などの全般的な見直しが進められるきっかけとなりました。自然に対する謙虚さと、制度設計の厳密さがいかに重要であるかを示す象徴的な出来事です。
No comments:
Post a Comment