銃声と影――広島代理戦争の記憶 1963年
昭和三十八年、広島の街は沈黙のなかで緊張に満ちていた。表向きは高度経済成長の恩恵に浴する地方都市のひとつに過ぎなかったが、その地下では地元暴力団と外部勢力とのあいだで、熾烈な主導権争いが繰り広げられていた。世に言う「広島代理戦争」である。この抗争の本質は、地元の独立系暴力団――山村辰雄率いる山村組や打越会など――が長年築き上げてきた縄張りに対し、大阪の巨大暴力団・山口組が本格的な侵攻を開始したことに端を発する。
当時、三代目山口組組長・田岡一雄は全国制覇をもくろみ、広島をその一環として取り込もうとしていた。地元派はこれに猛反発し、外部勢力の手先ともいえる進出派――山口組の支援を受けた如水会など――との間で、緊張が高まってゆく。昭和三十八年春から夏にかけて、広島市内では銃声が響く事件が相次ぎ、幹部襲撃や抗争による死傷者が続出。戦場は夜の街にまで広がり、市民の間には、不安と恐怖が蔓延した。
この抗争の中心にあったのが、地元の雄・山村組と、急速に勢力を伸ばしていた打越会である。山村組は広島市を拠点にした老舗の暴力団であり、戦後の混乱を生き抜いてきた強硬派。組長・山村辰雄は市内の利権構造に根を張り、建設、不動産、歓楽街に至るまで影響力を及ぼしていた。山口組の広島進出に強く反発した山村組は、外様勢力の排除に全力を注ぐ。一方の打越会は、山村組と近い立場にあったが、やがて独自色を強め、会長・打越正行のもとで独立を図る。その過程で山口組との関係を取り沙汰されるようになり、代理戦争の「鍵」となる存在へと変貌していった。
そして、抗争はついに流血の連鎖へと突入する。昭和三十八年、広島市中区流川町――現在の歓楽街の中心で、打越会系組員が山村組幹部を襲撃。白昼に発砲される拳銃、その音は繁華街の喧騒を一瞬で凍らせた。犯人らは逃走し、警察の追跡も及ばなかったが、この事件は市民社会に衝撃を与えた。その後も報復が相次ぎ、山村組構成員が打越会側の事務所付近で拳銃を乱射。一人が死亡し、流れ弾で通行人が負傷するという惨事となった。昭和三十八年八月、広島駅北口では、深夜に偶然鉢合わせた両派が即座に銃撃戦を開始。発砲は十発を超え、警察の制圧に数分を要した。地元紙は「市街戦」と報じ、市民の恐怖は頂点に達する。
この年の発砲事件は三十件を超え、死者十人以上、負傷者は数十人に及んだ。飲食街、駅前、商店街――日常が戦場へと変貌した。広島県警は特別態勢を敷き、警察庁も幹部を派遣して沈静化を図るが、暴力の根は深かった。
抗争と並行して、警察は摘発と武器押収を進めた。とくに「頂上作戦」が本格化した後には、組事務所や関連施設の家宅捜索が集中的に行われた。押収されたのは主に拳銃。三十八口径のリボルバーや、ベレッタやワルサーなど外国製の小型オートマチック拳銃である。これらは戦後の密輸ルートや不法改造によって流通したもので、呉港や大阪経由で広島に持ち込まれたと推定された。また、散弾銃や猟銃も用いられており、郊外では威嚇射撃や夜襲にも使われた。さらに、模造拳銃や火薬を仕込んだ改造品、手製のスタンガン、刃物、日本刀、脇差といった古風な武器も併せて押収された。
最終的に警察は、数十挺の銃器と数百発の実弾、防弾チョッキ、手榴弾の部品と見られる金属片なども押収しており、地方都市にしては異例の重武装状態であったことが露呈した。これらの武装は、もはや単なる暴力団同士の抗争を超え、都市における私設軍隊の存在を思わせるものであった。
昭和三十八年の広島代理戦争は、単なる地方都市の抗争ではない。それは、暴力団という「裏の国家」がどのように領土を拡張し、私的秩序をつくり上げていったかを物語る生きた証言である。沈黙の裏で流された血。その匂いはいまもなお、広島の裏通りにこびりついている。
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