烈侠の記憶――加茂田重政と一和会の昭和叙事詩(1930年7月6日~2020年9月1日)
加茂田重政は昭和から平成にかけて日本の裏社会で名を馳せた人物であり、特に三代目山口組の組長代行補佐、さらには一和会の副会長兼理事長として知られる存在であった。彼の人生は戦後の混乱期に芽吹いた愚連隊文化から、暴力団の巨大組織化、そして抗争と引退に至るまで、日本の裏面史と密接に重なり合っている。
神戸市出身の加茂田は若くして「わさび会」の客分として愚連隊活動を開始し、1956年に独立して自らの組織「加茂田会」(のちの加茂田組)を結成した。彼の組は三代目山口組・田岡一雄の直系組として承認され、神戸や大阪を中心に勢力を広げていく。加茂田組は「武闘派」として知られ、その存在は周囲に恐れられるものであった。組内には塩見務、飯田時雄、木村弘といった錚々たる幹部が名を連ね、山口組内でも一定の影響力を誇った。
しかしその強大な影響力ゆえに、加茂田はやがて組織抗争の渦中へと身を投じることとなる。1984年、三代目山口組の後継争いの果てに、竹中正久が四代目を継承したことに反発した一派が山口組を離脱し、「一和会」を結成する。この新組織には山本広、山健組の元幹部らが名を連ね、加茂田もまたその中核に加わった。彼は一和会の副会長兼理事長という要職を担い、のちに「山一抗争」と呼ばれる血みどろの対立を指導する立場に立った。
山一抗争は1984年から1989年にかけて全国を舞台に展開され、日本社会を震撼させた。多くの死傷者を出したこの抗争の中で、加茂田は一和会の軍師として冷静に、かつ大胆に組織の命運を導こうとした。しかし、抗争が次第に収束へと向かうなかで、1988年5月、彼は自身の加茂田組を解散し、表舞台からの引退を発表する。
その後の彼は公の場にはほとんど姿を見せなかったが、2016年に自伝『烈侠 山口組史上最大の抗争と激動の半生』を世に問うことで、自らの歩んだ道を静かに振り返った。そこには激しい抗争の裏にある冷徹な判断と、仁義に生きようとする一人の男の影が刻まれている。
加茂田重政の生涯は単なる暴力団幹部の物語ではなく、昭和という時代の混沌と暴力、そして矛盾の記録でもある。山一抗争における彼の立場は、まさに現代史の暗部を象徴するものであり、その語りは今もなお重い教訓を残している。
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