忍び足の帝国――中国はいかにしてアメリカの電力網へ侵入したか(2009年~2023年)
それは、警報も銃声もなく始まった。2009年、アメリカの電力網に仕掛けられた見えざる刃――ウォールストリートジャーナルが報じたその事件は、単なるハッキングではなかった。国家の神経系に潜り込む、戦争前夜の準備であった。調査により浮かび上がったのは、中国とロシア、二大強国の影。中でも中国は、沈黙を装いながら、その触手を着実にアメリカの奥深くに伸ばしていた。
2012年、ノースカロライナ州をはじめとする複数の電力会社に異変が起きた。無数のフィッシングメール、奇妙な通信ログ、そして中国からのIP。それらは直接の破壊を意図してはいなかった。ただ"入る道"を探し、"開かれた扉"を記録し、静かに滞在する。それは、敵が地図を描くための時間だった。
やがて2020年、SolarWinds事件が爆発し、世界がロシアのサイバー能力に目を奪われる中、中国は沈黙の奥で動いていた。電力関連の企業、政府の端末、運用システム――中国系のグループはそれらに密かに侵入し、記録を取り、遠隔操作の布石を置いていった。既にアメリカは、誰が味方で誰が敵かを判断できない"電子の霧"に包まれていた。
決定的だったのは2023年。Volt Typhoon作戦の名でFBIとNSAが公表したのは、国家規模の「潜伏」だった。中国政府が後ろ盾となるハッカーたちは、マルウェアを用いず、正規のツールを悪用し、既存のシステムに溶け込む"Living off the land"戦術を実行。彼らは扉を壊さず、合鍵で入ってきたのだ。特にハワイを中心とした太平洋地域では、完全なる隠密が成立していた。攻撃の構えではなく、起爆の準備。いつでも引き金が引ける場所に、既に彼らはいた。
このようにして、中国は十年以上の歳月をかけて、アメリカの電力網に侵入した。"突破"ではない、"浸透"である。あらゆる警備の隙間をすり抜け、国家機能の中にじわじわと根を張っていく。その姿は見えず、音もせず、だが確かに存在する。
現在、停電は起きていない。機器も動き続けている。だからこそ、それは恐ろしい。敵は既に中にいるのに、誰もその手を見ていない。静寂の中で毒は回り、電脈の奥に炎が宿る。次にそれが目を覚ますとき、アメリカの都市は光を失い、水が止まり、声なき戦争が始まるかもしれない。
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