「雨に濡れた舟、恋の余韻――八代亜紀という声の記憶」―1950年から2023年まで
炭鉱の町、熊本県八代市に生まれた一人の少女は、苦難の暮らしの中で歌を心の拠り所にしながら育った。その少女――八代亜紀は、1971年に「愛は死んでも」でデビューを果たし、1973年に発表した「なみだ恋」で一気にその名を世に知らしめる。彼女の声には、湿った情念と決して媚びぬ強さが同居していた。
「舟唄」では港の酒場を舞台に、ほろ苦い人生の断片を燗酒とともに漂わせる。低く切ない旋律とともに、聴く者を時間の外へと連れ去るような魔力があった。「雨の慕情」では、激しい雨に心の葛藤を重ね、日本レコード大賞に輝いた。サビの反復はただの技巧ではなく、魂の叫びであった。
演歌にとどまらず、彼女はジャズやブルースにも挑み、画家としても活躍した。その絵はフランス・ル・サロンにも認められ、声とは異なるもうひとつの魂のかたちを世に見せた。そして2023年12月、膠原病による間質性肺炎のため逝去。73年の生涯を閉じた。
八代亜紀は、ただ歌ったのではない。昭和、平成、令和の人々の哀しみと夢とを、その声に宿し、描き続けた。今も彼女の歌は、雨の夜、ふと誰かの心に灯をともす。
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