灯りの消えた舞台で――浅草レヴューと焼け跡の芸能譚(1945年〜1955年)
戦後間もない浅草。そこは 焦土の街に再び命を吹き込もうとする者たちの「芸の坩堝」だった。空襲で焼け落ちた街角に 再び明かりが灯る。復興するのはインフラではない。まず芝居だった。舞台だった。浅草六区に立つ仮設の舞台の上で 人々は再び歌い 踊り そして笑わせた。それは芸ではなく 生そのものだった。
浅草レヴューは 戦前の華やかな舞台とはまったく異なる性質を帯びていた。出演者の多くは戦地から戻り 何かを失っていた。家族 故郷 あるいは身体の一部。その喪失を隠すように あるいはさらけ出すように 彼らは観客の前に立った。笑いが起これば それは死者たちへの供養となり 拍手が鳴れば それは生きていることへの証明となった。
楽屋には もう帰らぬ仲間の衣装が掛けられていた。「あいつが最後に着たやつだよ」――その言葉は 芝居が続いていることの奇跡を意味していた。舞台に立つ者も 客席に座る者も 誰もが戦争の影を抱えていたが その影を超えて 光のほうへ向かおうとする意思が そこにはあった。
即興 歌謡 寸劇。形式に縛られない表現が 日常の破片を拾い集めて再構成する。それが「大衆演劇」だった。制度に守られず 経済的保証もない。だが その分だけ自由だった。生の熱と 死の記憶と 舞台の光が混ざり合う その場所こそが浅草だった。
やがて1950年代中盤 テレビの登場と生活様式の変化によって こうした演劇の熱は徐々に失われていく。劇場は閉まり かつての栄光は物置に収められた。それでも あの時代 焼け跡の中で生まれた芸は 間違いなく日本人の精神を支えた。
芸とは何か。それは 悲しみに灯りをともすことだ。浅草のレヴューは そのことを誰よりも強く知っていた。舞台は消えても その灯りは 記憶のなかで 静かに そして確かに 燃え続けている。
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