Tuesday, May 20, 2025

蔑まれし芸能、讃えられる芸能――「河原乞食」とテレビの時代(1950年代〜1970年代)

蔑まれし芸能、讃えられる芸能――「河原乞食」とテレビの時代(1950年代〜1970年代)

戦後日本における大衆芸能の地位は、目覚ましい復興と拡張の裏に、長らく社会的に蔑視されてきた起源を背負っていた。その象徴ともいえる言葉が「河原乞食」である。この呼称は、江戸時代以来、身分制度の枠外に位置付けられた非人・被差別民の中でも、興行や芸を生業とした者たちに向けられた蔑称であると同時に、芸能の民の誇りとも矛盾なく共存していた。

1960年代から70年代にかけて、テレビは家庭に深く浸透し、芸能人という存在が"茶の間の友人"として国民の生活に現れるようになる。芸は茶の間に入り込み、映画や舞台のような高いハードルなしに、万人の前に晒されるようになった。この急速な大衆化と同時に、芸能の社会的意味と立ち位置は変化する。しかしその過程で、かつての芸能の"被差別的起源"が見えにくくなる一方で、それを逆に自覚的に語る者も現れた。

俳優であり芸能史の語り部でもあった小沢昭一は、「私は河原乞食でございます」と自称することで、芸の根源にある卑しみと誇りを自ら引き受けた。そこには、芸能とは、社会の辺縁に生き、中央の規範に従わず、それゆえに自由にものを言える者たちのものであるという精神が流れていた。芸能人が権威や制度と距離を取ることができるのは、この"卑しき起源"があればこそだと、小沢は逆説的に誇ったのである。

この自己認識に対して、当時の批評家たちや文化人の中には強い敬意を表する者もいた。とある寄稿者は、「小沢昭一は河原乞食を自称している。だから私は彼を斬れない」と述べている。これは、芸能人が"上から目線の文化人"と対峙するのではなく、自ら最下層に身を置くことで批評を回避し、またその回避自体が一つの批評になっているという構図だ。

一方で、このような自己演出は、テレビというメディアの性格とも深く関係していた。テレビは「近さ」と「親しみやすさ」を売りとする媒体であり、そこに登場する芸能人たちは、旧来的な芸能者の"特別な存在"ではなく、「隣の面白いおじさんおばさん」として再定義されていった。だが、その"軽さ"の中に、歴史的な被差別性を内包する芸能の厚みが忍び込んでいたことに気づいていた人々も少なからずいた。

当時の日本は、まだ被差別部落出身者に対する偏見や差別が社会に根強く残っていた。全国水平社の運動が戦前に始まり、1960年代には同和対策事業が本格化していたが、芸能の世界はそうした"見えない出自"の避難所であると同時に、差別の温床でもあった。伝統芸能の一部や、ストリップ、漫才、講談、浪曲といった「寄席芸」的な世界では、その出自が暗黙の了解として共有されながら、公には語られなかった。

だからこそ、小沢昭一の「私は河原乞食です」という言葉は、歴史の縁に追いやられた人々の声を、戦後日本のまさにテレビという新しい公共空間に持ち込む行為だった。その言葉がもつ社会的インパクトは、たんなる自己卑下でも、逆張りの芸でもなかった。それは、芸とは何か、表現とはどこから来て、どこへ向かうべきかを問う、静かだが鋭い問いかけだったのである。

No comments:

Post a Comment