Saturday, May 17, 2025

正義は法廷の外にある――光文社闘争と岡邦俊の信念(1970年代初頭)

正義は法廷の外にある――光文社闘争と岡邦俊の信念(1970年代初頭)

岡邦俊弁護士の「無罪というのは闘いとるものだ」という言葉は一見して法廷戦術に関する実務的な指摘のようでいて実際には1970年代初頭の日本社会が孕んでいた権力と正義の根本的な矛盾を突いた思想的な告発でもあった。この言葉が発されたのは出版社・光文社をめぐる激しい労働争議いわゆる光文社闘争の渦中である。組合員の吉川進吾が「逮捕罪」で起訴された「2・4ピケ事件」において第一組合が第二組合員を説得しようとした行為が「不法逮捕」とされた。組合と弁護団はこの行為を正当な労働運動とみなし法廷での全面対決に臨んだ。

岡はこの行為に違法性がなくむしろ労働者の団結権に基づいた正当行動であることを強調した。その上で「可罰的違法性阻却の理論」を援用し「国家権力が刑罰を発動するほどの違法性には至っていない」として無罪を訴えたのである。だが判決は「懲役三ヶ月執行猶予一年」の有罪。判決文にはピケ行動の背景や会社側の問題点について一定の理解も見られたが結論として吉川には刑罰が科された。これに対して岡は「無罪というのは裁判所の不信から出発しなければならなかった」と語り法と権力の関係性そのものへの強い不信をあらわにした。

この言葉が持つ思想的意味は当時の社会情勢と密接に関わっている。1960年代末から70年代初頭にかけて日本社会は反体制運動と騒乱の時代を迎えていた。全共闘運動三里塚闘争学生による大学封鎖などが頻発し警察権力と市民の対立は過激化していた。岡自身も東大闘争の弁護団として活動し権力と対峙する法律家の一人として頭角を現していた。こうした時代において司法制度は決して中立な存在ではなくしばしば体制を維持するための装置として機能していた。その現実の中で法廷という場もまた決して「真実と正義が自動的に認められる場所」ではなかったのである。

岡が語った「無罪を闘いとる」という姿勢はまさにこのような状況を前提としている。制度に期待してはならず正義とは他者に与えられるものではなく自らが主張し構築し獲得するものであるという思想だ。これは単なる戦術ではなく法に対する構造的批判であり法を信じながらもそれにすがることなく超えてゆこうとする倫理的態度といえる。

司法制度への信頼の限界そしてその内側で闘争を継続するという二重の構え。岡のこの言葉は権力と対峙する市民の在り方を深く問いかけてくる。そしてそれは現代においてもなお通用する強度を持っている。政治事件や労働問題において司法の独立性が揺らぎ続けている今「無罪を闘いとる」という思想は我々に再び法と正義の意味を問い直す契機を与えてくれる。

裁判所は真実を裁く場所ではない。そこは真実と正義を「示す」ことしかできない。だからこそそこに至るまでの道筋こそが最も重要なのだと岡邦俊は語っていたのではないだろうか。司法がどれほど制度として整っていようとそれを動かすのは人間の信念と行動である――それこそが1970年代初頭の混沌を生き抜いた者の残した静かで重い警句なのである。

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