Friday, May 9, 2025

千葉の黒歴史 - 成田空港闘争と学生運動の1970年代

千葉の黒歴史 - 成田空港闘争と学生運動の1970年代

1970年代、日本中で学生運動が激化していた。僕もその渦中にいた一人で、安保条約やベトナム戦争への反対を訴え、友人たちと共にデモや集会に参加していた。特に、1972年の浅間山荘事件は僕にとって大きな衝撃だった。連合赤軍の内部対立や総括という名の暴力を目の当たりにし、理想と現実の矛盾に心を引き裂かれた。

一方で、千葉県成田市では、成田空港建設をめぐる壮絶な土地闘争が繰り広げられていた。建設予定地の農民たちは、先祖代々の土地を守るために抵抗を続けた。政府は約5000万円の補償金を提示したが、多くの農家はそれを拒否し、地元住民と支援する学生や労働者たちは「三里塚闘争」と呼ばれる激しい抗議活動を展開。1971年には成田空港反対派のデモにおいて、1万人を超える参加者と1万5000人の警察が対峙し、200人以上が負傷、3人が命を落とす事態となった。

現場に足を運んだ僕は、農民たちの必死な姿に胸を打たれた。「この土地は金で買えないんだ!」と泣き叫ぶ一人の農民の声が、今でも耳に残る。その一方で、埋め立て地の漁業権を放棄した漁師たちは補償金を受け取り、一部は立派な家を建てたが、固定資産税や生活費に苦しみ、結局はその家を手放す者も少なくなかった。浦安市では埋め立てが進むにつれて潮干狩りが遠くなり、漁業権を手放した人々の中には補償金の大半をヤクザに奪われる悲劇もあった。

僕の友人も成田の闘争に参加し、大学を退学することになった。成田空港が1978年に開港した後も、その影響は長く残り、土地を奪われた農民の中には生活再建に苦しむ人が多かった。空港建設に伴い、周辺地域では公害問題も浮上し、住民は新たな課題に直面することになった。

あの時代、僕たちは何を守り、何を失ったのだろう。1970年代の千葉で見た涙、怒り、そして失われた命の重さは、今でも僕の心に刻まれている。

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