囁きと叫びのあいだで──浅川マキと上條恒彦、表現の境界線に立つ夜(1973年頃)
――銀座の裏通り、コーヒーの香りが染みついた薄暗い喫茶店。深夜、客は二人きり。浅川マキが煙草に火をつける。
浅川マキ「上條さんさ、あんたは"本物"をどこに置いてるの?」
上條恒彦(湯気の立つカップを見つめながら)「舞台だよ。あんな薄っぺらな箱で、自分の歌が抜け殻みたいに映るのが嫌なんだ。歌は、空気を震わせて人の皮膚に触れなきゃ嘘になる」
浅川「でも、あたしは逆だな。テレビに出るのは、私みたいなのでも、やっと届く場所があるって思ってる。夜のジャズ喫茶に来ない連中の耳にも、私の'闇'を流し込めるんだもん」
上條「でも、テレビで君の歌が全部伝わるかい? "あの歌"は、君があの照明の下、汗と煙と沈黙とで生んだものじゃないか」
浅川(くすりと笑う)「あなた、まだ照明の魔法を信じてるんだね。私はさ、今じゃ薄暗がりのほうが本当だと思ってる。舞台も、テレビも、どっちも演出だよ。結局は、誰がどこまで自分をさらけ出せるかの問題よ」
上條「さらけ出す……ね。俺は、学生運動の熱が冷めていったあの瞬間を知ってる。仲間が大人しくなって、何も言わなくなった。そのとき、自分の声だけでも残さなきゃと思った。だから、歌った」
浅川「でもその"声"って、あなたの中の"民衆"を演じてるだけじゃない? 私はね、いつも自分の"孤独"を演じてるの。群れじゃなくて、ただの女の、夜の吐息を」
上條「それもまた、政治だ。君の孤独も、きっと誰かの救いになる。マスのためにじゃなく、誰か一人のために歌う、それが表現なんじゃないか」
浅川「……一人で聴いてくれる人がいれば、私は生きていける。テレビだろうと、舞台だろうと、ね」
(しばし沈黙)
上條「君はミュージカルには出ないの?」
浅川「出ないよ。芝居なんて自分の中にいくらでもあるし、台本がないほうが私らしい。それに、あんたこそ"紋次郎"までやったじゃないの。あの風に吹かれて何も言わない演技、なかなか似合ってたよ」
上條(笑って)「あれはね、"語らない者の叫び"を表したかったんだ。声を出さずに、心の底で怒鳴るような芝居を」
浅川「あんたさ、ほんとはずっと叫んでるんじゃない? 私は、囁いてる」
上條「それぞれの革命の仕方、ってわけだな」
(二人、黙ってコーヒーを飲む。煙草の煙が天井にゆらりと昇っていく)
このやりとりは、1973年前後の文化的潮流と芸能界の狭間に立つ者たちの魂の往復である。演技と歌、孤独と大衆、そして囁きと叫び──時代の熱は静かに、この夜にも燃えていた。
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