Friday, May 9, 2025

雪と情念の声――石川さゆり、海峡と峠を越えた女の歌(1973年〜)

雪と情念の声――石川さゆり、海峡と峠を越えた女の歌(1973年〜)

石川さゆり、本名・石川絹代。1958年1月30日、熊本県飽託郡に生を受けたこの女性は、1973年、「かくれんぼ」で鮮烈なデビューを果たす。当初はアイドル的な装いをまとい、歌謡曲に近い柔らかな旋律を歌っていた。だが、彼女の運命を大きく変えたのは、1977年に発表された「津軽海峡冬景色」であった。この曲によって、石川は単なる流行歌手から、日本的情念を歌い上げる演歌の女王へと昇華していく。

「津軽海峡冬景色」は、青森から北海道・函館へと向かう夜行列車に揺られながら、別れた恋人を想う女性の心を綴った楽曲である。「上野発の夜行列車おりた時から青森駅は雪の中」という冒頭に、降りしきる雪と沈黙の中に沈む心が重なる。サビで繰り返される「ああ津軽海峡冬景色」の"ああ"には、言葉にできぬ胸の内がにじむ。声なき叫び、雪にかき消される想い、そして旅という孤独。演歌の三要素――場所、季節、情――が見事に結晶している。

この時期の石川の歌唱は、まだ若さを残しながらも、哀愁を帯びた声音で聴く者の胸を打った。こぶしは抑えられ、語りかけるような節回しに、少女の面影と女の覚悟が共存していた。

そして1986年、「天城越え」が世に放たれる。伊豆の山中、天城峠を越えていく女の心は、もはや情念そのものだ。「隠しきれない移り香がいつしかあなたにしみついた」という冒頭に漂うのは、過去の逢瀬の残り香。女は過ちを知りながら、それでも忘れられぬ男の影を追う。そしてクライマックス、「あなたと越えたい天城越え」には、倫理も常識も命さえも越えていこうとする、抗えぬ愛の執念が凝縮されている。

この曲での石川は、もはや少女ではない。情念を声に乗せ、節回しは大胆かつ緻密。こぶしは回るというより、絡みつくように旋律に溶け込む。溜める声、沈黙の間、振り切るような高音。演歌という形式に魂を注ぎ込むとは、このことだろう。もはや歌を歌っているのではなく、ひとつの劇を演じているかのようだった。

時代を経て、石川の歌はさらなる深みへと進化する。2000年代には「ウイスキーが、お好きでしょ」のような静かな色気をたたえた作品で、また違った"女"の姿を見せる。さらに椎名林檎との共作「暗夜の心中立て」では、伝統と現代の融合を果たし、新しい演歌のかたちを提示した。

若き日の透明な声音、そして円熟の低音とこぶし。石川さゆりは変わり続けながら、ただ一度も、芯を見失うことがなかった。日本の四季と風景、そして女の情念を、これほど美しく、時に激しく、歌い続けた歌手が他にいるだろうか。石川さゆりの歌とは、時間と場所を超えたひとつの旅であり、聴く者の心にもまた、越えるべき峠を残していく。

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