**「田中角栄と浪曲、玄洋社との奇縁」-1979年頃の政治と芸能の交差点**
1970年代後半、田中角栄はすでに首相の座を降りていたが依然として政界の実力者として「闇将軍」とも呼ばれていた。この時期の彼の大衆的人気を支えたのは出自の貧しさを感じさせない土着的な語り口と民衆に寄り添うような政治スタイルだった。そしてそれは彼の「浪曲をうなる」特技にも象徴される。
ここで語られる田中角栄の浪曲の趣味は単なる余興ではない。浪曲とは明治以降の日本において庶民に最も愛された語り芸であり、劇的な抑揚や義理人情の物語を通して聴衆の心をつかんできた。浪曲の起源とされる桃中軒雲右衛門は明治の自由民権運動や国粋主義の文脈の中で重要な役割を果たした人物である。そして彼の背後にいたのが玄洋社、つまり頭山満を中心とする国粋主義者の団体である。
頭山満は祭文(語りもの)を好んだことで知られ、自身も浪曲の名人だった。その玄洋社の初代社長・箱田六輔は短命ではあったが明治思想界における一種の象徴だったという。さらに、昭和初期に亡くなった藤井六輔、そして新派の俳優・大矢市次郎へと「六輔」という名の系譜が続く。この「三人の六輔」が赤い絹糸でつながっているように感じられると筆者は語る。
興味深いのはこの六輔たちが関わる新派劇の世界である。新派劇とは明治後期から昭和初期にかけて写実的な人情劇を重視した演劇形式であり、川上音二郎のような人物がその発展に寄与した。川上もまた玄洋社と浅からぬ関係があった。つまり、浪曲・新派・国粋思想・田中角栄という一見無関係な要素が歴史の中でゆるやかに絡み合っているのだ。
筆者はこの「六輔」たちの資料が集まったら一冊の作品にまとめたいと語る。そしてそれは単なる郷愁や懐古ではなく、政治的にも思想的にも対決を描くつもりだという。その構図とは、国粋主義の六輔と現代の知識人による批判的対峙を想定しているのだろう。
この会話が生まれた時代、すなわち高度経済成長から石油ショックを経て日本が変貌しつつある70年代末、日本社会では大衆文化と政治の距離が急速に縮まっていた。テレビ、ラジオ、演芸が政治家のイメージを形づくり、芸能と政治がしばしば接点を持つようになった。その象徴こそが、浪曲を披露する田中角栄という存在であり、民衆の言葉を語る者=政治家としての役割を果たしていたといえる。
浪曲とは何か。政治とは何か。芸とは何のためにあるのか。それらを再び問い直す視点が、この会話から浮かび上がってくる。戦前から続く思想的系譜と、戦後民主主義のはざまに立つ田中角栄のイメージは、当時の読者にとっても非常に挑発的だったに違いない。
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