埋められた叫び、裁かれた沈黙――豊島・環境犯罪と行政責任の夜明け(2000年)
香川県の瀬戸内海に浮かぶ小さな島、豊島。この島が日本の環境行政の深部に問いを突きつけたのは、1990年に明るみに出た、60万トンにおよぶ産業廃棄物の不法投棄だった。焼却処理もされぬまま野積みにされた廃棄物は、雨にさらされ、有害な浸出水となって土壌と海を蝕んでいった。だが、より深刻だったのは、その惨状を黙認していた香川県の「監督不作為」だった。
島民たちは、悪臭と汚染に包囲されながらも沈黙しなかった。豊島住民会議は、公害調停を申し立て、行政に正面から対峙する。そして1997年、香川県が処理責任を全面的に認めるという、日本の公害史上初の調停合意にこぎつける。その後の廃棄物撤去は、直島への移送処理という前代未聞のプロジェクトへと展開した。
2000年、全国の自治体に緊張が走っていた。もはや廃棄物処理の許可を出すだけの時代は終わり、監視と是正、そして説明責任の時代へと移行し始めていた。豊島事件は、産業と行政、そして市民の三者の力関係を問い直し、「循環型社会」の礎をつくる大きな転換点となった。
見えない場所に積まれたものは、廃棄物だけではない。怠慢と無関心、そして制度の空白である。豊島の埋立地に吹いた風は、日本中の役所の書架をも震わせた。裁かれたのは、企業の犯罪だけではなかった。行政の沈黙、そのものが問われたのである。
豊島事件の発端は、1970年代後半から1980年代にかけて香川県が許可した業者が、島内に「中間処理施設」と称する場を設けたことに始まる。しかし、実態は焼却などの処理をせずに廃棄物を野積みし続けるという悪質なもので、県はそれを事実上放置した。
1990年、住民たちは異臭や汚染の深刻化を受けて実態調査に乗り出し、環境庁に訴える。報道が全国的に広がった1992年、環境庁は「香川県に一定の責任がある」との認識を示すが、県はなおも責任を否定し、状況は膠着したままだった。
1996年、ついに住民たちは法的手段に踏み切り、公害等調整委員会に調停を申請する。そして1997年、香川県が「監督責任」を明確に認め、60万トンにのぼる廃棄物の撤去と処理を約束する調停が成立する。この調停は日本の環境史における画期的な一歩であり、以後、直島に建設された専用施設での廃棄物処理が始まる。
1999年から2000年にかけて、その撤去と移送は本格化し、費用は最終的に100億円を超える見通しとなった。この過程で、全国の自治体は自らの監督義務を再確認せざるを得なくなり、産廃業者への指導・監視体制の強化に取り組むこととなった。
この事件は、単なる地方の廃棄物問題ではない。それは、日本社会が「行政は環境破壊の傍観者であってはならない」と自らに課した一つの覚醒であり、「見て見ぬふり」が法的責任に問われる時代への移行を象徴するものであった。豊島の傷跡は、今も私たちの制度と良心に問いかけ続けている。
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