灰の利権に踊る人々――平成六年 秋、医療廃棄物処理狂騒録
1980年代末の日本では、病院から出る注射針や血の付いたガーゼなどの感染性廃棄物が、一般廃棄物や産業廃棄物と一緒に「合わせ産廃」として処理されていた。清掃作業員が注射針で刺される事故や、病院側による不法投棄が頻発していたが、それは経費削減を優先する病院経営の事情も背景にあった。こうした危険な状況に歯止めをかけるべく、1989年に厚生省は医療廃棄物処理ガイドラインを制定。1992年には「感染性廃棄物」が法的に特別管理産業廃棄物として位置づけられ、滅菌処理の義務や排出者責任が課された。
この法整備を機に、突如として脚光を浴びたのが、感染性廃棄物処理ビジネスという新市場である。年商300億円規模と見込まれ、処理費用は従来の廃棄物の10倍に達するとも言われた。ゴミの処理が金になる状況に変貌したことで、異業種からの参入が相次ぎ、新規事業ブームが巻き起こる。
この熱気を象徴するように語ったのが、全国産業廃棄物連合会医療廃棄物専門部会の渡辺昇部会長だった。「なにしろ新しい市場になりますからね。不動産、タクシー会社、土木会社などいろんな業種から参入してきましたよ」と述べ、まるで見つけた者勝ちのような参入ラッシュの様子を表現している。しかし、その一方で、急速な業者の増加が招いた混乱についても彼は厳しく警鐘を鳴らす。「そこで問題が起きたんですよ。必要以上に業者が増えたものだから、ダンピング競争が起きましてね。一キロあたり五十円から千円まで、同じ廃棄物でも処理料金は業者によってバラバラ。安いところは、以前と同じ方法で処理するしかないでしょう。法改正前に逆戻りですよ」と述べ、感染性という重大なリスクを伴うにもかかわらず
、利益優先の価格競争によって現場では再び危険な旧式処理が横行する事態に陥っていることを明かした。
実際、この市場には大企業が次々と進出した。NECや富士通はバーコードとコンピュータを組み合わせた管理システムを開発し、伊藤忠商事と綿久寝具が共同で設立したメディポートシステムは、廃棄物排出時・運搬完了時・焼却直前という三段階でバーコードを読み取ることで処理過程の可視化と管理を徹底しようとした。また、新日鉄系の巾部鋼業は、製鉄工程から出る廃熱を利用した溶融処理を名古屋市内で開始するなど、技術革新の波も広がっていた。
中堅企業やベンチャーも創意工夫を重ねた。焼却炉を搭載した移動式処理車を走らせた共和化工、第三次燃焼室まで備えた高機能焼却炉を開発したライフエンテック、注射針の貫通や液漏れを防ぐ容器を出した天昇電気工業や出光石化、使用済み注射針を粉砕する機械スカイロボを開発したナガモトなど、それぞれが安全性と効率性を競っていた。さらに、富士電機やコートクといった技術企業は、バーコード管理とデータベースの自動記録印刷システムを構築し、規制対応を支援した。
しかしその一方で、平成六年当時、特別管理産業廃棄物の処理許可を得た業者は千五百社以上に上ったが、その九割は医療廃棄物処理の経験を持たない新規参入組。知識も倫理観も未熟なまま価格競争に参戦し、杜撰な処理が再び蔓延するという、制度設計のほころびが露呈していた。渡辺部会長の「逆戻り」という言葉には、この矛盾と危機感が集約されていた。
この医療廃棄物処理ビジネスの急成長と混乱は、単なる新産業の勃興ではなく、法制度と市場経済が交錯する現場で何が起きるのか、そして安全と利益がいかに対立し得るかという、本質的な問いを突きつけている。
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