沖縄ヤクザの矜持—富永清と旭琉會の歩み(1946-2019)
沖縄は1945年の沖縄戦によって壊滅的な被害を受け、その後、1952年のサンフランシスコ講和条約により日本から分離され、アメリカの施政権下に置かれた。この米軍統治時代は1972年の本土復帰まで続き、沖縄社会は特殊な環境の中で独自の発展を遂げた。米軍基地経済に依存する形で歓楽街や風俗業が栄え、それに伴って地元の暴力団組織も成長していった。沖縄のヤクザは、本土の暴力団とは異なる独自の生態系の中で勢力を築いたのである。
戦後の沖縄には「那覇派」と「コザ派」という二大暴力団勢力が存在し、互いに対立を続けていた。しかし、1960年代後半になると、本土の暴力団、特に山口組や住吉会といった巨大組織が沖縄への進出を試みるようになった。本土勢力が沖縄の地下社会を支配することを恐れた地元勢力は、1970年に「沖縄連合旭琉会(のちの旭琉会)」を結成し、那覇派とコザ派を統合することで対抗した。こうして旭琉会は沖縄ヤクザの象徴として君臨することとなった。
富永清は、1946年に沖縄県久米島で生まれ、旭琉会の幹部として頭角を現した。だが、1980年代後半になると、旭琉会内部で意見の相違が激しくなり、1990年、ついに富永清は一部の幹部とともに離脱し、「沖縄旭琉会」を設立する。これにより、沖縄ヤクザの統一は崩れ、「四代目旭琉会(旧・旭琉会)」と「沖縄旭琉会」に分裂することとなった。組織の理念や運営方針をめぐる対立が根底にあったものの、本土の暴力団勢力の介入をどこまで許容するかという点も、この分裂の背景にはあったと言われている。
1990年代を通じて、両派の間では激しい抗争が繰り広げられ、銃撃戦や殺傷事件が相次いだ。沖縄の歓楽街や建設業界にも影響が及び、暴力団排除の機運が高まる中で、組織そのものが衰退の危機に立たされていった。しかし、このまま抗争を続けることは沖縄のヤクザ全体の存続を危うくすると判断され、2011年、ついに「沖縄旭琉会」と「四代目旭琉会」が統合し、新たに「旭琉會」が誕生した。このとき、富永清が会長に就任し、沖縄の暴力団勢力は再び一本化されることとなった。
統一を果たした旭琉會は、暴力団排除の強化や社会的な圧力が増す中で、本土勢力と一定の距離を保ちつつ、沖縄独自のヤクザ文化を維持しようとした。しかし、2019年7月12日、富永清はこの世を去る。彼の死後、旭琉會は新たな体制へと移行したが、沖縄における暴力団勢力の未来は依然として不透明なままである。
富永清は、沖縄の暴力団をひとつにまとめ、本土勢力の進出を防ぐために奔走した人物であった。彼の生きた時代には、戦後の混乱、米軍統治、本土ヤクザの進出、そして暴力団排除の強化といったさまざまな変化が渦巻いていた。そんな中で、富永清は沖縄のヤクザを守るという矜持を持ち続け、時には内部抗争に身を投じながらも、最後には再統合という形で歴史に名を刻んだのである。
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