テレビが生んだスターたち――1970年代半ば、日本の音楽番組と業界の癒着
1975年当時の日本の音楽番組は、テレビ局と音楽産業が密接に結びついた形で展開されていた。特に「紅白歌合戦」「ベストテン」「スクール誕生」などの番組が、音楽業界の基幹番組として機能していた。これらの番組は視聴率獲得を最優先とし、特定のレコード会社やプロダクションと連携することで、特定の歌手や楽曲を大々的に売り込む場となっていた。
例えば、「紅白歌合戦」は年末の一大イベントとして、レコード会社やプロダクションにとって極めて重要な番組だった。出演者の選定は、単に人気や実力だけでなく、所属するプロダクションの影響力やテレビ局との関係性にも大きく左右された。ナベプロのような大手プロダクションが強い影響力を持ち、所属歌手の出演枠を確保することで、その年の「売れ筋」を決定する仕組みになっていた。これにより、新しい音楽や独立系アーティストが番組に登場する機会は限られ、音楽の多様性が損なわれる要因となった。
また、「ベストテン」のようなランキング形式の番組も、視聴者参加型でありながら、実際にはレコード会社や音楽出版社とテレビ局の戦略的な連携のもとで運営されていた。楽曲のランクインには、レコード売上や視聴者投票だけでなく、テレビ局の意向やプロダクションの力関係が影響を与えることもあり、「操作されたランキング」が問題視されることもあった。
さらに、「スクール誕生」などの新人発掘系の番組は、一見すると公平なオーディション形式を取っているように見えたが、実際には特定のプロダクションやレコード会社と関係のある候補者が優遇されることも少なくなかった。視聴率を重視するテレビ局は、話題性のある新人を前面に押し出すことで、音楽産業との関係を強化し、広告収入を増やす戦略を取っていた。
このように、1975年の音楽番組は、視聴率を優先するテレビ局と商業的成功を狙う音楽業界が密接に結びつくことで、一部のプロダクションやレコード会社に有利な環境を作り出していた。この構造の中で、音楽の多様性が失われ、新しい才能が埋もれるリスクが指摘されていた。結果として、1970年代後半から80年代にかけて、こうした独占的なシステムに対する批判が高まり、音楽番組の形態が徐々に変化していくことになる。
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