Friday, March 21, 2025

漢江の陰影――一九七七年夏・大韓民国観察記

漢江の陰影――一九七七年夏・大韓民国観察記

私はあの頃、韓国の政治をめぐる日本の報道姿勢に強い違和感を抱いていた。新聞を開けば金大中や金芝河の名ばかりが躍り、テレビでは「民主主義の闘士」として彼らを称える識者の声があふれていた。たしかに彼らは弾圧され、発言の自由も奪われていた。だが、だからといって韓国全体を「暗黒の独裁国家」と断じるような論調には、私はどうしても納得がいかなかった。

私が取材で何度も訪れたソウルの街は、朴正煕政権下で目まぐるしく変わっていた。かつて農村だった場所には工場が立ち、高速道路が延び、人々の暮らしには活気があった。セマウル運動によって田舎にも近代化の波が押し寄せ、子供たちは制服を着て元気に通学していた。その風景が、私には単なるプロパガンダの産物とは到底思えなかった。

それでも、日本の文化人やマスコミの多くは、こうした現実をまるで見ようとしなかった。彼らの目には、朴政権はただの「軍事独裁」であり、それを批判することが知識人としての「良心」だとでも言いたげだった。私はそれを「善悪二元論」としか思えなかった。実際のところ、韓国は北朝鮮という現実の脅威を抱えた国家であり、冷戦構造の中で経済と安全保障の両立を模索するしかなかったのだ。

さらに私が警戒したのは、当時アメリカのカーター政権が掲げていた「人権外交」に、日本の言論界があまりに影響されていたことだった。カーターの言葉があたかも絶対的な正義のように受け止められ、日本国内でも「人権」「自由」といった言葉が独り歩きしはじめていた。だが、人権は本来、文化や歴史や国情によって異なる文脈を持つものだ。西欧的価値観をそのままアジアに当てはめることに、私は疑問を抱かざるを得なかった。

私は韓国の政治を全面的に肯定するつもりはなかった。言論の自由が制限されている現実も、政治的な抑圧も、現場で何度も目にしてきた。しかし、それだけではなかった。朴政権には、それでも国家を成り立たせようとする意志と、結果を伴う政策が確かにあったのだ。

日本人はしばしば、遠くの国の出来事に道徳的判断を下すのが好きだ。だが、その前に、自分たちの足元を見てみるべきではないのか。ロッキード事件で逮捕された田中角栄が、なおも政界に影響を持ち続けるこの国こそ、果たしてどれだけ「民主的」なのか。私はそう問いかけたかった。

報道の仕事に携わる者として、私は現実を単純化せずに語ることの重さを常に感じている。そしてこの韓国の件では、まさにその「単純化」が世論を歪めていると確信していた。声高に「自由」を叫ぶことと、現実を見つめることとは、まったく別の営みなのだ。

そして今でも私は思い出す。暑さの中で、旅館の窓から見た打ち上げ花火の音、愛犬のダニ騒動、しるこの味付けに塩を間違えたあの兵舎の釜の記憶。すべてが甘さと苦さを含んでいた。だが、塩の味こそが、それらを引き立てていたのだ。政治もまた、塩の味が必要なのだと、私は思っている。

No comments:

Post a Comment