Saturday, May 24, 2025

東京隠逸記――永井荷風の孤高なるまなざし(1879~1959)

東京隠逸記――永井荷風の孤高なるまなざし(1879~1959)

永井荷風 本名永井壮吉は 1879年 東京に生まれた。明治 大正 昭和という激動の時代を生き 文化と文明のはざまで葛藤し続けた文学者である。父は高級官僚で 荷風は裕福な家庭に育ち 幼少の頃から西洋語と異文化に親しんだ。早稲田大学を経て渡米し ニューヨークのコロンビア大学に留学。続いて渡仏し 欧州文化の洗礼を受ける。その経験は彼の内面に 急速な近代化への違和感と 古き日本文化への執着を刻み込んだ。

帰国後は東京帝国大学でフランス文学を講じるかたわら 自らの海外体験をもとに『あめりか物語』『ふらんす物語』などを著し 異文化と自己の軋轢を描いた。だが真の荷風が現れるのは 東京下町の花柳界や私娼の世界に分け入ってからである。彼の眼差しは 文明の光の外に取り残された人々の生活に注がれていた。彼にとっての文学とは 失われゆくものを記録する行為であり 進歩の名のもとに破壊される情緒への最後の抵抗だった。

代表作『腕くらべ』では芸者との淡い恋を『墨東綺譚』では向島の私娼との交流を通して 俗世に咲く情と美を描いた。荷風の筆は 古典的文語体の格調を保ちつつ 都市庶民の生活と感情を 驚くほど繊細に浮かび上がらせる。江戸の残響がまだ辛うじて残っていた東京で 彼は粋と儚さを織り交ぜた独自の世界を築いた。

晩年 荷風は「断腸亭」と名づけた家にこもり『断腸亭日乗』と呼ばれる日記文学を書き続ける。戦争 空襲 戦後の混乱 東京の変貌……彼はすべてを冷静に 時に痛切に綴った。芸者はいなくなり 遊郭は廃れ 街は瓦礫と化し 人々の心には新しい時代の軽薄が満ちていく。そうした中でも荷風は 孤独を友とし 消えゆくものを見送るように文字を綴った。

彼の文学は 流行からは遠く 時代に迎合することもなかった。だが その厳しい美意識と都市への愛惜は 谷崎潤一郎や三島由紀夫といった後の作家に大きな影響を与えた。芸者 寄席 銭湯 路地裏──そうした被写体の背後には 近代化が切り捨てた情と人間性への静かな嘆きがあった。

永井荷風が描いたのは 滅びの美学であり 忘却への抵抗である。東京の影の中に立ち尽くしながら 彼は問い続けた。「人は何を捨てて 何を手に入れたのか」と。荷風の文学は 今もなお 過ぎ去りし時代の哀しみを運ぶ風となって 読む者の心をかすめてゆく。

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