### 獣のごとき統率者 石間春夫の凍てつく覇道(1930〜1990)
石間春夫(いしま はるお、1930年3月19日 – 1990年1月4日)は、北海道夕張郡長沼町の出身で、五代目山口組の舎弟にして初代誠友会会長を務めた人物である。その苛烈な気性と統率力から「北海のライオン」と称された。
1965年、石間は柳川組北海道支部の第2代支部長に就任し、道内の裏社会で頭角を現す。柳川組とは、初代組長・柳川次郎(梁元錫)が築いた在日韓国・朝鮮人系構成員を多く抱える武闘派暴力団であり、1950年代から60年代にかけて関西を拠点に全国的な勢力拡大を進めた組織である。博徒系とは異なる気風を持ち、強硬な行動で知られたが、1969年に柳川次郎の引退により解散となる。
この柳川組の解散後、北海道においては石間を中心に新たな秩序が模索され、北海道誠友会が結成された。これは、柳川組残党による再編的組織であり、石間はその相談役を務めた。当初は独立志向が強かったが、北海道内の抗争を避けるため、和解と調整を重視する石間の姿勢が際立ち、道内の暴力団間のバランス役を担うようになる。北海道誠友会は、札幌を中心に地方都市へと支部を広げ、道内の一定の勢力を保った。
1977年には、北誠会と北海道誠友会が合併し誠友会として再出発。石間はその初代会長に就任し、名実ともに北海道における代表的組織の長となった。誠友会は、賭博や不動産、建設などの利権を通じて地元経済に深く入り込んでいた。
1985年4月、誠友会は山口組に正式加入。石間は五代目山口組の舎弟に迎えられ、同会は山口組直系組織として全国組織の一角を担うようになる。これにより、北海道における山口組初の直参団体が誕生し、同地のヤクザ地図は大きく塗り替えられた。
石間の最期は突然であった。1990年1月4日、札幌市で右翼団体維新天誅会のメンバーによって射殺され、59歳で波乱の生涯を閉じた。彼の死は、北海道裏社会に激震をもたらし、政治的な動機が取り沙汰されたが、詳細は今なお謎に包まれている。その後、誠友会は田村武志が継承し、五代目山口組の直参として組織の命脈を保った。
石間春夫は、山口組内では五代目組長渡辺芳則と信頼関係を築いていたことで知られる。また、舎弟分の田村武志(のちの誠友会二代目)や、関西の武闘派として名高い宅見勝(五代目山口組若頭補佐)とも親交があり、北と南をつなぐ連絡役としても機能していた。地元では、札幌や旭川の古参親分たちからも一目置かれる存在であった。
柳川組の武闘性と在日ネットワーク、そして石間春夫の道内における強い求心力が交差し、北海のライオンとしての伝説を築いたのである。今もなお、北海道裏社会を語るうえで、彼の存在は欠かすことができない。
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