毒の海と沈黙の国家――チッソ・水俣病と政治の不作為(1950〜1970年代)
1950年代後半から1970年代にかけて、日本は「高度経済成長」のただ中にあった。鉄鋼・電力・化学・造船などの基幹産業が国家の威信を背負い、成長の象徴とされたこの時代、公害という言葉はまだ一般に馴染みのない、そして極めて"政治的に不都合な"言葉だった。
そんな中、熊本県・水俣湾で発生した「奇病」が全国の注目を集める。1956年、公表された「原因不明の中枢神経障害」は、やがてチッソ株式会社の化学工場から海に流された有機水銀が原因であることが判明する。だが、国も県も企業も、そして多くの報道機関すら、この"あまりに明白な因果関係"を長く黙殺した。
なぜか――その背景には、経済成長至上主義の国家体制と、それに巻き込まれた地方経済の実情があった。チッソは単なる一企業ではなかった。水俣の町の基幹雇用主であり、税収の中心であり、地域の「繁栄の象徴」だった。社員やその家族は地域に広く根を張り、行政や医療関係者とも密接に結びついていた。
この構造の中で、被害者たちは二重の苦しみにあう。一つは、身体的苦痛と死。もう一つは、告発することで「共同体の裏切り者」とされる精神的孤立。つまり、苦しみを声にすればするほど"迷惑をかける人間"として排除されるのだった。
このような沈黙の構造を補強したのが、国家の政治的無作為である。厚生省も通産省も、表向きは「調査中」と繰り返しながら、裏では企業との調整と沈静化を図る。メディアは経済界との関係を背景に報道を控え、被害者運動がようやく立ち上がるのは1960年代後半になってからである。
だが、ここでさらなる皮肉が待っていた。「被害者」が「運動家」と見なされた瞬間、国家の扱いは変わる。チッソの責任追及や補償を求める声が強くなると、公安警察が動き出し、集会やデモに対する監視が強化された。国家にとって「問題」は、加害企業の行動ではなく、「騒ぎ立てる市民」のほうへとすり替えられていったのである。
このように、水俣病は単なる地域的公害事件ではなかった。それは、戦後日本が"成長"の名の下に、いかにして人間の声を封じ、弱者を切り捨て、企業を保護したかの構造的証明であり、国家と資本と市民のあいだに生じた倫理の断絶そのものであった。
さらに1970年代に入り、四日市ぜんそく・イタイイタイ病・新潟水俣病などが連鎖的に社会問題化してゆく中で、初めて公害対策基本法や環境庁(現・環境省)が設置される。しかし、それは「運動によって政治を動かす」最終段階での成果であり、水俣の沈黙と孤立は、その前提にあった。
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