興行と抗争のはざまで――名古屋・栄に生きた男 石川尚の軌跡(1970年代〜2000年代)
三代目山口組傘下・平松組の舎弟として活動した石川尚(いしかわ・ひさし、1934年7月2日生まれ)は、後に名古屋に拠点を移し、自身の団体「名神実業」を設立した。この企業は1977年12月、三代目山口組組長・田岡一雄からの親子盃を受けて山口組の直参(二次団体)に昇格し、「名神会」へと改称された。名古屋を中心に中京圏、さらには関西圏へとその影響力を拡大し、石川は単なる武闘派ではなく、組織の中でも調整力と経済感覚を兼ね備えた異色の存在として知られるようになる。
石川は平松組時代に、山口組の芸能部門「神戸芸能」に関わっていた経験を持ち、それを活かして名古屋においても芸能プロダクションを立ち上げた。これが後に「神戸芸能社名神プロ」と呼ばれるようになる。芸能活動の名のもとに、タレント興行、人材育成、舞台やイベント支援といった活動を展開し、愛知・大阪・兵庫へと事業を拡大していった。公的な記録こそ少ないが、「名神実業」の経済基盤を支えた重要な部門だったと考えられている。
1980年代半ば、山口組は竹中正久を四代目に据えるも、その体制に反発する一和会との間で「山一抗争」が発生。石川は竹中の警護役兼秘書としてその側にあり、組長周辺の中核的存在であった。1985年1月、竹中正久が一和会によって大阪で射殺されたその日、交代勤務についていた南力(名神会の若頭)も同日射殺された。この事件は山一抗争の引き金となり、以降、全国規模の抗争へと発展していくことになる。
抗争後、五代目山口組が発足し、渡辺芳則が組長に就任すると、石川はその舎弟に列せられた。愛知県内で唯一の五代目舎弟として、弘道会とともに名古屋における山口組の勢力を支え続けた。2007年2月、石川は長年率いてきた名神会を後進に譲り、静かに引退した。後継には田堀寛が指名される。田堀はもともと弘道会の出身であり、石川のもとで名神会理事長を務めていた人物であった。石川の引退後、田堀は高山清司の舎弟となり、弘道会に復帰。2008年3月、名神会は再び山口組の直参へと昇格する。
名神会の本部は名古屋市中区栄3丁目に位置し、中京圏における山口組の拠点として長年その名を知られてきた。芸能と裏社会、興行と抗争。石川尚の人生は、そうした二重構造の只中を器用に渡り歩きながら、名古屋・栄という都市の記憶に、ひとつの濃密な影を刻んだ。都市と暴力、文化と地下経済が交錯するその地点に、彼の足跡は確かに残されている。
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