Sunday, July 27, 2025

渡辺はま子歌傳(うたでん) 昭和歌謡抄

渡辺はま子歌傳(うたでん) 昭和歌謡抄

渡辺はま子(1910年〜1999年、本名:加藤浜子)は、昭和初期から戦後にかけて日本の歌謡界を彩った、異国情緒あふれる歌姫である。彼女は神奈川県横浜市に生まれ、武蔵野音楽学校を卒業後、音楽教師としての道を歩んでいたが、1933年に「最上川小唄」でレコードデビュー。その後、1937年に日本コロムビアに移籍し、本格的に歌手活動を始める。

昭和13年の「愛国の花」を皮切りに、「支那の夜」「広東ブルース」「蘇州夜曲」といった中国をモチーフにした歌曲を次々に発表し、「チャイナ・メロディーの女王」と呼ばれるようになる。異国の旋律を日本語の歌詞にのせ、艶やかなチャイナドレス姿で舞台に立つ彼女の姿は、多くの人々の心に焼きついた。「支那の夜」は映画とも連動し、国民的ヒットとなった。

彼女の同時代には、藤山一郎のように西洋音楽を基礎とした端正な歌唱で人気を博した男性歌手や、淡谷のり子のようにジャズやシャンソンを取り入れて「ブルースの女王」と称された女性歌手もいた。渡辺は、それらとは異なる、オリエンタルな世界観と哀愁を帯びた叙情性によって独自の地位を築いた。戦時下の日本では、渡辺の歌は一種の希望であり、異国への憧憬と戦地の兵士たちへの慰問を担う文化装置でもあった。

1945年の終戦を中国・天津で迎えた彼女は、約10か月にわたり現地で抑留生活を送りながらも、日本人捕虜たちのために歌い続けたという。帰国後は再び音楽活動を再開し、「桑港のチャイナ街」「あゝモンテンルパの夜は更けて」などをヒットさせた。特に戦後の混乱と再出発の象徴として、彼女の声は国民の心にしみわたった。

1951年には第1回NHK紅白歌合戦に出演し、紅組のトリを務める栄誉を得た。以後、9回にわたり出場するなど、戦後歌謡界における存在感も確かなものとなった。フィリピンでの捕虜救援活動など社会貢献にも尽力し、1973年には紫綬褒章、1981年には勲四等宝冠章を授与された。これらは、単なる歌手ではなく、文化人としての彼女の姿勢を示すものである。

同世代の歌手の中でも、渡辺はま子の歌声には独特の透明感と奥行きがあった。藤山一郎の端正さ、淡谷のり子の情熱とはまた異なり、渡辺は旅情と異国の香りをまとう声で、人々を遠い異国の夢へと誘った。その声は懐メロとしてテレビで流れ続け、昭和の情景とともに記憶されている。

1989年に歌手を引退した後も、彼女の存在は長く語り継がれた。そして1999年、大晦日の静かな夜に、渡辺はま子は89歳でこの世を去った。だが「支那の夜」「蘇州夜曲」の調べとともに、彼女の声は今も多くの人々の心に生き続けている。渡辺はま子の歌は、戦争の影をくぐり抜け、夢と哀愁を織り交ぜた昭和という時代のひとつの詩であった。

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