六区(浅草六区)――昭和46年の都市の残光と雑踏の文化的磁場
昭和46年(1971年)当時の浅草六区は、すでに全盛期を過ぎながらも、東京の下町における庶民文化の象徴的な場所として、なおも人々の生活と記憶の中に根を張っていました。明治末期から昭和初期にかけて、寄席や活動写真館、劇場などが密集し、日本一の娯楽街として発展した六区は、かつては芸人や俳優の登竜門であり、芝居や芸能の華やかな文化が息づいていました。
しかし戦後、高度経済成長とともに娯楽の中心が新宿や渋谷に移り、六区は次第に時代の影に沈みはじめます。それでもこの時代、浅草の町にはまだ、かつての歓楽街の面影と、人情に彩られた風景が濃厚に残っていました。六区では、ストリップ劇場、場末の映画館、風俗店などが営業を続け、芸人くずれや水商売の人々が行き交い、都市の裏面が生々しく表出していたのです。
とりわけ、観音堂の脇にある被官稲荷は、そうした人々のささやかな祈りの場であり、吉原の遊女や芸者、役者、町火消しといった「浮草稼業」の人々が自らの不安な明日を託す対象でした。そこに刻まれた屋号や名前は、近代以前の都市文化の遺構ともいえるもので、石の鳥居に寄進された新門辰五郎の名は、浅草がいかに「裏江戸」の記憶を宿していたかを物語っています。
当時の浅草六区は、都市再開発の波にさらされながらも、なおも過去と現在、俗と聖、生と死が入り混じる特異な磁場を形成しており、そこに立つだけで、東京という都市の記憶が静かに語りかけてくるような場所でした。六区を語ることは、都市の光と影を見つめ直す行為にほかなりません。
No comments:
Post a Comment