"都市の焼却炉"に揺れる秦野市――1995年4月
1990年代中盤、バブル崩壊後の経済の停滞と都市化の進展の狭間で、地方都市は新たなインフラ整備と住民サービスの再構築を迫られていた。神奈川県秦野市も例外ではなく、首都圏近郊のベッドタウンとしての人口増加に伴い、ごみ処理能力の逼迫という現実に直面していた。当時、全国的に「中間処理施設」としてのごみ焼却炉の高機能化が進んでおり、環境アセスメントや住民説明会を経ての施設設置が常態化しつつあった。
しかし、秦野市での焼却炉建設計画は、時代背景と地域事情が複雑に絡み合い、予想外の摩擦を生んだ。特に1990年代前半は、ダイオキシン問題が全国的に注目され始めた時期であり、焼却施設からの排出が「見えない危険」としてメディアに取り上げられていた。厚生省(現・厚労省)は1990年に基準値を定め、自治体は高温焼却炉や排ガス処理装置の導入を余儀なくされていた。
そのような中、秦野市が掲げた「クリーンセンター構想」は、最新技術による無害化処理と地域環境との共生をうたったものだった。しかし、候補地周辺の住民は、健康被害や悪臭、資産価値への影響などを強く懸念し、「説明不足」との批判が噴出。さらに市議会でも意見が分かれ、地域審議会も紛糾。従来の行政主導の「説得型」から、住民との「対話型」合意形成への移行が求められる時代に入りつつあった。
この問題は、単なる焼却炉建設の是非を超え、都市政策における民主的合意形成のモデルチェンジを象徴する事例とも言える。環境問題への感度が高まり、地域自治と参加型社会の模索が本格化する中で、秦野市の動きは他自治体にも影響を与えることになった。
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