俳優・女優の率直なテレビ談義――距離と不信の感覚(1970年前後)
1970年前後、日本のテレビは完全に大衆生活の中心装置となっていた。高度経済成長の果実として家庭に行き渡り、芸能人にとっては露出の場であり、商品価値を左右する舞台でもあった。しかし同時に、この時代はテレビがあまりにも巨大になりすぎたがゆえに、その影響力を芸能人自身が警戒し始めた時期でもある。
アンケートに登場する俳優・女優たちの発言には、テレビに対する素朴な愛着よりも、醒めた距離感が色濃く表れている。加賀まりこの「テレビで白痴化した、で済むなら便利すぎる」という言葉は、白痴化論そのものへの皮肉であると同時に、テレビに責任転嫁する思考への拒否でもある。人が鈍くなる原因をすべてメディアのせいにしてしまう発想そのものが、すでに欺瞞ではないかという疑念がにじんでいる。
この発言が象徴的なのは、芸能人がテレビを影響力の強すぎる存在として自覚していたからだ。テレビは確かに人を変える。しかしそれは単純な善悪ではなく、見る側、出る側の姿勢によっていかようにも転ぶ。加賀の言葉には、テレビを過信も過小評価もしない冷静な現実感覚がある。
同様の距離感は前田美波里の姿勢にも見られる。彼女はテレビを仕事の延長として捉え、深く語ること自体を控える姿勢を示している。そこには、テレビが私生活や思想を語る場としては危ういという感覚が透けて見える。テレビは表現の場ではあるが、内面を預ける場所ではない。その線引きが当時の俳優たちの間で共有されつつあった。
さらに踏み込んだ不信を示すのが磨赤児に代表される発言である。「テレビは見るものじゃなく、出るものだと気づいた」という言葉は、テレビを鑑賞装置として信頼していないという宣言に等しい。ここではテレビは現実を映す鏡ではなく、現実を加工する機械として認識されている。
1970年前後、深夜番組の拡張や視聴率至上主義の定着により、テレビは娯楽と報道、政治と私生活を混在させ、境界を急速に曖昧にしていた。芸能人は人間と商品との境目で切り売りされる存在となり、その現場に立つ当事者ほど、テレビの語る現実を無条件には信じなくなっていった。
俳優・女優たちの率直な談議は、テレビ批判というより、テレビへの過度な期待への警告に近い。テレビは万能ではなく、責任を引き受けてはくれない。だからこそ彼らは皮肉や冗談というかたちで距離を取り、自分の思考と生活を守ろうとした。その姿勢は1970年前後という時代が生んだ成熟したメディア感覚をよく示している。
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