「共産党員と村の空気」―昭和二十〜三十年代の政治不信と監視の構造
昭和二十年代から三十年代、特に戦後の混乱期から高度経済成長前夜にかけての日本では「政治」は多くの地方にとって"遠くて恐ろしいもの"だった。特に日本共産党に対する警戒心は国家権力のみならず地域共同体の内部にも根強く存在していた。
地方の青年が「共産党に入ったらしい」「ビラを撒いている」といった噂は瞬く間に村全体に広まり「あいつは変わった」「お上に睨まれている」といった風評と共にその青年を包囲していく。村の住民は彼の言う「正義」や「平等」には耳を貸さずむしろ国家権力からの連座を恐れる。彼が何を語るかよりも「警察が動いたらどうする」「村に火の粉がかぶる」という本能的な回避の意識が先に立つのだ。
これは戦前から続く治安維持法や特高警察による「赤狩り」の記憶さらには戦中における密告と相互監視の構造が終戦後も形を変えて生き延びていた証左である。冷戦構造が世界を覆い日本がアメリカの反共政策の一翼を担っていた1950年代には共産主義への同調は「非国民」の烙印を押される危険な行為だった。
1950年の「レッドパージ」では多くの共産党関係者や同調者が職場を追われ新聞や電波を通じた「共産主義=暴力と混乱」のイメージが定着していく。こうした国家的な構図が地方社会にも影響を及ぼす。小さな村において共産党員はまるで「疫病神」のように扱われるのだ。本人がどれだけ理想を語っても「面倒なことはごめんだ」「お上ににらまれては暮らしていけない」という共同体の自衛本能がそれを封じる。
また当時の農村社会では「政治に関わる者はヤクザと同じ」とする偏見が根強く選挙も「村の有力者がどこに投票するか」で決まるような"談合的民主主義"が幅を利かせていた。だからこそ「個人として信念を持って政治に関わる青年」は逆に浮いてしまい孤立する。
このエピソードは戦後民主主義が紙の上では保障された一方で地域社会ではその精神が受け入れられていなかった現実つまり「表の民主主義」と「裏の同調圧力」の対立を如実に表している。青年の「正義」は社会に受け入れられずむしろ排除されていく。国家権力と共同体が奇妙な共犯関係を築く昭和の空気のなかで彼の姿は時代のひずみを映す鏡でもある。
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