Monday, March 24, 2025

小塚斉事蹟略考――昭和一九年より戦後昭和期にかけての裏面史

小塚斉事蹟略考――昭和一九年より戦後昭和期にかけての裏面史

小塚斉は戦時中に日本陸軍の一兵士として中国戦線に出征し、1944年に展開された「河南作戦」に参加していたことで知られる。河南作戦は中国・河南省において日本軍と国民党軍が激突した大規模な地上戦であり、熾烈な戦闘と多大な死傷者を出した。小塚はこの過酷な戦場を生き延び、復員後は戦場で培った胆力と組織的行動力をもって、戦後の混沌とした社会に身を投じていった。

戦後、小塚は関西から山陰地方にかけての芸能・興行界に深く関わり、「日本海芸能社」という芸能プロダクションの代表的存在として頭角を現す。同社は演歌歌手や俳優のマネジメント、地方巡業、ステージ興行などを手がけ、同時に裏社会とのつながりを持つフロント企業とも見なされていた。とりわけ山口組との関係性が取り沙汰されており、当時の山口組が芸能・興行の世界に影響力を強めていくなかで、小塚はその調整役として活動したとされている。

小塚の活動拠点は鳥取県米子市を中心とする山陰地方にあった。米子は戦後復興とともに港湾や鉄道交通の要所として発展し、同時にテキ屋や博徒といった在来の任侠勢力が根を下ろす土地でもあった。山口組は昭和30年代からこの地域に進出を図り、興行・建設・運輸などの表向きの事業を通じて勢力を広げていた。小塚はこの動きの中で、山陰進出における地元との交渉や事前調整、いわば"地ならし"のような役割を担っていた人物である。

さらに、小塚は昭和30年代の国民的プロレスラー・力道山とも接点を持っていた。力道山は表向きは英雄的な存在であったが、裏では山口組をはじめとする暴力団勢力と密接な関係を持っており、興行の際には警備や会場確保などを任侠勢力に頼っていた。小塚はそうした裏方の調整を担当していたとされ、特に力道山が山陰・中国地方で興行を行う際の地元窓口として、またトラブル調整役として暗躍していたという証言も存在する。

記録に残る組織のトップというよりは、裏社会と芸能・スポーツ界を結ぶ影の実務者として知られていた小塚斉の活動は、歴史の表舞台には現れにくい。しかし、戦後日本の地方における興行史、芸能界と裏社会の交錯、さらには山口組の地方展開を語る上で、彼は非常に重要な存在であったと言えるだろう。その足跡は断片的ではあるが、力道山や山口組の活動圏を補完する存在として、今なお多くの謎を残している。

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