Saturday, April 26, 2025

白飯を仰ぎて、斃れし兵――ある兵の追憶(明治三十七〜三十八年・日露戦役)

白飯を仰ぎて、斃れし兵――ある兵の追憶(明治三十七〜三十八年・日露戦役)

日露戦争(1904〜1905年)のさなか、陸軍の兵士たちには精白された白米が主食として支給されていた。精米技術の進歩によって真っ白な米は衛生的かつ贅沢な食事と見なされ、多くの兵に歓迎されたが、やがて思いもよらぬ事態を招くこととなる。次第に多くの兵が体調を崩し、重い病に倒れる者が相次いだ。

これに対し、ある軍では、近代的な栄養管理を実践する軍医の指導により、麦飯などを取り入れた食事改革が進められ、被害を大幅に防いだ。一方、別の軍では、当時の最高位の軍医が別の原因説を支持し、栄養の問題を否定したため、麦飯の導入は見送られた。

その結果、戦死よりも病に斃れた者の数が多かったとの指摘もある。たとえば、戦中に病で命を落とした兵士は約27000人とされ、これは戦闘による戦死者数(約47000人)の半数を超える規模であった。兵士たちの間では「弾で死ぬなら本望だが、飯で死ぬのは悔しい」といった声も漏れたという。

俺たち陸軍の兵隊には、白く光るような飯が支給されていた。見たこともないくらい真っ白で、最初は本当に嬉しかった。農家育ちの俺らには、白米なんて祭りの日でも滅多に口にできるもんじゃなかったから。まさか戦場で、腹いっぱい白い飯が食えるとは思わなかった。

けれど、月日がたつにつれ、何かがおかしくなっていった。皆、どこか影が差したように、力を失っていった。飯を食っているのに、日に日に元気をなくしていく。仲間内では「妙な病」と呼び、最初は笑い話にもしていたが、笑いはすぐに消えた。

あっちの海軍の兵隊たちは、麦を混ぜた飯を食って、この病を免れたらしい。聞けば、軍医さんがそう指導していたという。俺たちを診る軍医様は、「これは伝染るものだ」と言い張り、麦飯を忌み嫌った。なぜ違ったのか、なぜあのままだったのか、俺たちには知る由もなかった。ただ、白い飯を食いながら、目に見えぬ力に少しずつ蝕まれていった。

戦で撃たれて死ぬなら、それはそれで仕方ないと思ってた。でも、飯を口に運びながら、じわじわと命が削れていくなんて、誰が想像できたろう。友の顔から血の気が失せ、いつの間にか寝たきりとなり、やがて静かに息を引き取っていく。それを、俺たちはただ見守るしかなかった。

もしあのとき、麦飯が配られていたら。もし、なにか、たったひとつでも違っていたら。そんなことを思わずにはいられないけれど、何が正しかったのか、結局、俺には分からない。ただ、あの白い飯の眩しさと、その後に訪れた底知れぬ闇だけが、今でも、はっきりと心に残っているんだ。

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