絶世の容花、雪に散りて――夕霧太夫ものがたり(1672年〜)
夕霧太夫は、江戸時代前期に実在した名妓であり、その生涯は恋と誠を貫いた伝説として、三百年以上を経た今も人々の胸を打ち続けている。もともと長崎・島原遊廓に籍を置いていたが、1672年、寛文十二年に大阪・新町へと移籍し、老舗・吉田屋の太夫となった。この移籍は遊郭の世界にとって一大事件であり、夕霧の登場によって新町は瞬く間に関西随一の遊里としての地位を不動のものとした。
新町に現れた夕霧の姿は、まさに絶世の容花と形容された。肌は雪のように白く、黒髪はつややかで、目元には憂いが漂っていたという。彼女を一目見ようと諸国の富商、文人、武士たちが列をなし、そのために町の交通が麻痺するほどだったという逸話さえ残っている。その美貌に惹かれて通い詰めた客は数知れず、なかには命を縮めた者すらあったという。だが、夕霧の魅力は外見のみにとどまらなかった。和歌、書、三味線、茶の湯に通じ、言葉の端々に品格と教養が滲む。彼女は「ただの遊女」ではなく、文化人としても敬意を集める存在だった。
その人間性を最もよく伝えるのが、藤屋伊左衛門との恋である。伊左衛門は大坂の名家に生まれた若旦那だったが、夕霧に心を奪われるあまり家財を蕩尽し、ついには家を追われる。世間の冷笑の中、夕霧は変わらぬ愛を注ぎ、彼を慰め、養い続けた。貧しさに身を落としながらも、二人は手を取り合い、ひとときの幸福を紡いだという。
この物語は、近松門左衛門の浄瑠璃『廓文章』に昇華され、また歌舞伎『夕霧名残の正月』として舞台化された。舞台では、病に伏した夕霧が正月の日に伊左衛門と再会する。喜びに満ちた束の間、彼女は彼の腕に抱かれながら静かに息を引き取る。新年の華やぎと死の静けさが交錯するその瞬間は、まさに芸術が現実を超えて感情を結晶させた場面である。
夕霧は二十代半ばで病没したとされ、死因は肺病あるいは長年の心労による衰弱と語られる。遺骸は京都・嵯峨野に葬られたとされるが、詳細は不明で、かえってその不確かさが神秘を添えている。彼女を偲ぶ石碑は今も大阪・新町に残されており、花街の記憶を静かに語っている。
さらに、夕霧の命日は毎年法要が営まれ、「夕霧忌」と称されるようになった。この法要はやがて俳諧の世界にも取り入れられ、新年の季語として定着するに至る。俳人たちは、雪に散る花、凍る川面、初春の風に重ねて、夕霧という一人の女性の儚さと情念を詠んだ。例えば、「夕霧忌や 白き椿の 匂ひけり」といった句が、今も季節の句会で披露されることがある。
夕霧の物語は単なる色恋譚ではない。絶世の美貌を持ちながら、情を貫き、時代に翻弄されながらも気高く生きた女の一代記であり、そこには遊女という存在の悲哀と誇りとが凝縮されている。
彼女の名は、歌舞伎や浮世絵、浄瑠璃を通して芸術の中に生き、石碑や墓に刻まれ、さらには季語となって空を舞い、今日もなお日本人の情緒を静かに揺らし続けている。
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