沈黙の海に浮かぶ声――チッソ・水俣病と国家の不在(1950〜1970年代)
1956年、水俣湾に異変が起きた。魚が狂い、人々の手足が痙攣し始めた。それは、チッソ株式会社の工場が海に流したメチル水銀の仕業だった。しかし、その原因が明らかになるまで、国も県も、まるで時間が止まったかのように沈黙した。加害企業であるチッソは、水俣の基幹産業であり、町の経済を支えていた。被害者は苦しみを訴えれば「共同体を壊す者」として非難される。声を上げる者は、孤立し、監視され、国家によって"治安の対象"とされていった。
国家は「成長」の名の下に、企業を守り、人間の命を見捨てた。厚生省も通産省も、調査と称して加害構造の延命を支えた。やがて1970年代、公害が全国的に広がるなか、ようやく環境庁が生まれるが、水俣の沈黙は、その代償であった。水俣病は、日本が見て見ぬふりをした"公害という政治"の、原点である。
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