「銀幕の歌姫と戦後の夢 ― 雪村いづみと1970年代芸能界の交差点」
1950年代に"和製グレース・ケリー"と称され、映画・歌謡・テレビのすべてを舞台とした戦後最大級のマルチタレントとなった雪村いづみ。その芸能的存在は1970年代の若い世代にも憧れの対象として息づいていた。とりわけ、落語家・林家三平の娘・海老名泰葉が「世界に通じる歌手になりたい」「雪村いづみのように」と語っていたことは、その象徴的な例である。
1970年代の芸能界は、バラエティ中心のテレビ全盛期。芸の質よりも人気と話題性が優先される風潮の中で、雪村のような実力と国際感覚を併せ持つ歌手は、芸能界の原点を体現する存在として再評価された。
また、1970年代は日米文化の融合が加速した時代でもある。若者の間ではビートルズやサイモン&ガーファンクル、カーペンターズといった洋楽の影響が強く、歌手としても世界に通用する存在への志向が芽生えていた。雪村いづみは、戦後間もない時期に英語の歌を歌いこなし、ジャズやポップスを日本語に置き換えながら昇華させた第一人者であり、「英語ができて、アメリカ的エンターテインメントを知る女性アーティスト」としての評価は当時なお高かった。
さらに、彼女の登場と活躍は、女性芸能人に対する社会の見方をも変えた。従来、歌うだけの女性アイドルが主流だった時代にあって、雪村はいち早く舞台女優や映画スターとしてのセルフプロデュース的な芸能像を打ち立てていた。こうした「自己演出する女性像」は、70年代のウーマンリブやフェミニズム運動の文脈にも呼応し、再び注目される土壌を得ていた。
海老名泰葉の発言に「雪村いづみのようになりたい」とあるのは、単なる歌唱力の評価ではなく、「世界に通用する、日本的でありながら国際的な女性芸能人」への理想像として彼女が刻まれていたことを意味する。それは、芸能がテレビと商業主義に呑まれていく時代のなかで、一種の芸術的純度や誇りのようなものを象徴していたのかもしれない。
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代表曲とその芸術性
■「想い出のワルツ(Till I Waltz Again with You)」
1953年、雪村がカバーしたアメリカ曲で、甘く切ない旋律と共に、戦後の希望と不安を抱える日本の若者の心を掴んだ。英語の発音の滑らかさや情感豊かな声質により、日本語詞の訳詞版でありながら洋楽の本質を失わない演奏として高く評価された。
■「青いカナリヤ」
哀愁漂うメロディとともに、少女の淡い恋心や郷愁を歌い上げた名曲。雪村の清冽な声質は、この楽曲のセンチメンタリズムと見事に融合している。戦後の貧しさの中に咲く小さなロマンを象徴した一曲として記憶されている。
■「マンボ・イタリアーノ」
洋楽ナンバーをそのまま日本語と混ぜて大胆に歌いこなす手法は、当時の日本では斬新だった。雪村の歌唱は明るく弾けたリズム感と、エキゾチックな雰囲気を併せ持ち、テレビや映画でも人気を集めた。
これらの楽曲は単なるヒット曲ではなく、日本人が異国文化をどのように吸収し、自国の文脈で再創造するかという模索の成果でもあった。1950年代から60年代にかけての雪村いづみの存在は、テレビ草創期のスターであると同時に、芸術としての芸能を志す後進の理想像ともなった。
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