「革命の空を裂いて――よど号と田中義三の軌跡」〔1970年3月〕
田中義三(たなかぎぞう/別名:ハヤシ・カズノリ)は、日本の新左翼運動における象徴的な活動家であり、とりわけ1970年3月の「よど号ハイジャック事件」の実行犯として、その名を歴史に刻んだ人物である。1948年7月23日、青森県三沢市に生まれ、幼くして熊本へと移った田中は、熊本県立済々黌高等学校を卒業後、明治大学政治経済学部Ⅱ部(夜間)に進学。1960年代末、学園紛争の嵐のなかで社会主義学生同盟に参加し、やがて赤軍派へと身を投じていった。
1969年、田中は警視庁本富士警察署への火炎瓶投擲事件に関与し、地下活動の道を選ぶ。翌1970年3月31日、彼は8人の仲間とともに、羽田発福岡行きの日本航空351便、通称「よど号」をハイジャックする。その手には模造の日本刀と爆発物。若者たちは機体を占拠し、目的地を「北朝鮮」に定めた。田中は操縦室に最初に突入し、まさに事件の先陣を切った一人であった。
この事件は、日本初の本格的な航空機ハイジャックとして、国家を揺るがす衝撃を与えた。機体は韓国・金浦空港に着陸し、日本政府は人命優先の立場から、山村新治郎運輸政務次官を人質交換のために送り込むという異例の対応をとった。そしてついに「よど号」は平壌へ。田中を含む犯人一行は、北朝鮮に政治亡命者として受け入れられ、「よど号グループ」として国際的にも注目される存在となる。
北朝鮮での生活は長く続き、田中は1977年に水谷協子と結婚。その後も国外に姿を見せることがあり、1996年にはカンボジアで北朝鮮外交官とともに偽ドル事件に関与した疑いで拘束される。裁判の結果、無罪が確定するも、2000年に日本へ送還され、30年越しに「火炎瓶事件」と「よど号事件」で起訴された。2002年には懲役12年の判決を受け、2003年に上告を取り下げて服役が確定した。
熊本刑務所での服役中、田中は肝臓癌を発症し、2006年11月に大阪医療刑務所へ移送された。12月には刑の執行停止が認められ、2007年1月1日、彼は58歳で静かに息を引き取った。その後、遺稿と関係者の寄稿による『田中義三遺稿追悼集』が刊行され、生前の彼の思想と生き方が改めて問われることとなった。また、生前には『よど号、朝鮮・タイそして日本へ』を著し、自らの歩んだ軌跡を記録として残している。
田中義三の人生は、国家との対決、亡命という決断、そして帰還と服役の果てに至るまで、戦後日本の陰影と矛盾を鮮烈に映し出している。よど号事件は、冷戦下の日本において政治的、外交的、そして道徳的に極めて重い問いを投げかけた。田中の存在は、理想に殉じた青年の姿であると同時に、「革命」の名のもとに引き裂かれた時代の記憶でもある。
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