Thursday, May 1, 2025

歌が砕ける場所――泉谷しげる『戦争小唄』と検閲なき検閲(1973年頃)

歌が砕ける場所――泉谷しげる『戦争小唄』と検閲なき検閲(1973年頃)

1970年代初頭。高度経済成長がピークに達し、街にはモータリゼーションの音が溢れ、テレビが一家に一台の時代となっていた頃。日本の若者たちは一方で、ベトナム戦争の報道や沖縄返還の陰で、国家と個人の距離に悩み、テレビやラジオからは流れてこない声を探していた。

そんな時代に、泉谷しげるは『戦争小唄』を発表する。タイトル通り、戦争をテーマに据えたこの曲は、軍隊・徴兵・命令・死を茶化すようなリズムと語り口で描いていた。だが、問題はその内容そのものよりも、「テレビで流せるかどうか」という点にあった。

テレビ局は、この曲の一部の歌詞が「刺激が強すぎる」「放送にそぐわない」として、放送時には"自主的に"改変。具体的には、言い回しをマイルドにし、表現をすり替えるような処理が行われた。歌詞に込められた反戦の棘や皮肉の効いた比喩は、映像の編集によって"角を落とされた"。

しかし、これは公式に「検閲」とは呼ばれなかった。国家権力が直接に規制したわけではなく、放送局が「自主規制」と称して忖度したのだった。それでも泉谷のメッセージは明確だった。「戦争とは国家と個人の関係であり、命令を拒むことは"狂気"とされる社会を歌った」というこの曲は、テレビという大衆装置の中では咀嚼されきれず、むしろ異物として浮かび上がった。

そして興味深いのは、その後の動向である。テレビから消えた『戦争小唄』は、それでも若者たちの間でカセットに録音され、ライブで叫ばれ、フォーク酒場で歌われ続けたという点である。テレビが口を閉ざしても、歌そのものは口から口へと伝播した。

この出来事は、1970年代という時代の「音楽と社会」の裂け目を象徴している。表現の自由が謳われながらも、公共性の名のもとに言葉が調整され、歌が静かに骨抜きにされていく。泉谷しげるは、それにあらがうようにギターをかき鳴らした。そしてそのギターの音は、テレビのスピーカーからは聞こえずとも、耳を澄ませる者の内部に響いていた。

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